日本人として、日本語をもう少し丁寧に扱おうと心に決める。 ~吉屋信子『花物語(上)』を読む~
はじまりは先輩からの独白だった。
「学生の頃、フランス人形みたいな先輩がいてね、洗顔の泡の上手な立て方を教えてくださったり、免許を取って初めてのドライブは助手席に乗せてくれたり。」
「それは恋愛だったりするの?」
「うーん、どうだろう。」
先輩は少し考える。
「恋愛感情は無かったかな。でも、その人に初めて彼氏が出来て、遊ばれて捨てられたとわかった時は心の底から相手が憎かったし、進学した後に車で学校まで迎えに来てくれたのに、彼氏の誕プレ選ぶの付き合ってって言われた時は、本当に、面白くなかったんだよね。」
僕は先輩の話に相槌を打ちつつも、男の目線から見るとそれは恋愛なのではと思ったが、どうやら違うらしい。
「まあ、女子校の女学生にはSって関係性があるから。」
「サティスファクション?」
「君の人間性が出る回答だね。シスターのSだよ。」
「萩尾望都みたいな感じ?」
「ノン、吉屋信子と言いなさい?」
少女文学なんてものには一切縁がない人生だったが、まあここに来て味わってみるのもいいだろうと思ったのはこの時である。先輩との会話が無ければ、おそらく本を手に取ることも無かっただろうから。
日本語を美しいと感じたのは、瀬戸内寂聴の源氏物語を読んで以来だった。特に驚いたのは、描写の細やかさと選ばれた言葉の洗練された感触だ。この本を少女文学と呼んだ時代の読者達、いわゆる子供達の文学の素養は計り知れない。
書いてある内容は他愛もないのだが、美しい日本語で少女の心境や生活の様子を描き出すということについて、はっきり言って今までの読書経験では感じることはなかったし(『赤毛のアン』がこれに近かったが、こちらの方がより美しいと感じた。)、男性である自分自身が「この文章は今後愛でていきたい。」と思ったことも驚きだった。どこか引用して例を示したいのだが、最初から最後まで、一字一句が美しいので、詳しくは本書を読んでほしい。
大正時代の、女学生の多くがバイブルとして読んだ少女小説を、まさか令和の時代の、しかも成人男性が読む事になると誰が予想したろうか。
おそらく、令和の世の読書という趣味において、また違った趣向を示してくれていることは間違いない。
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