マン・レイ
1890.08.27.-1976.11.18 アメリカ生まれ
絵画・写真・彫刻・映像など多岐にわたる表現方法やレイヨグラフ・ソラリゼーションなどの新しい技法を使った芸術家。ダダやシュルレアリスムの主要人物。
実家を出た後に出会ったアドン・ラクロワが好きだった詩集や近くに住んでいたデュシャンの影響を受けながら作品を制作していた。
1915初個展に絵画やドローイングの作品を発表し、その資金でマンハッタンにスタジオを開く。ダダの表現をするためにオブジェの制作に没頭。ユニークといえる作品を生涯多くつくる。1920にデュシャンと雑誌『ニューヨーク・ダダ』を発刊。1号限りだが、評価される。しかしダダイズムはニューヨークには合わないと判断。パリへ。
パリまでの主な作品にはセルフポートレート、エアログラフのRope dancer、初個展で出品した贈り物など。
パリに30歳の時に渡る。
既にパリで暮らしていたデュシャンに多くのシュルレアリストに紹介される。モンパルナスに住み、そこでモンパルナスのキキと出会った。モデルとしても恋人としても多くを共にした。作品アングルのヴァイオリンや白と黒、涙、実験映画エクマ・バキアなど。
写真として白と黒は対比写真のマスターピースと言える。女と男。美と獣。縦と横。白と黒などなど。
並行して、多くの商業写真の依頼をシュルレアリストたちから受ける。その時代にいたパリの芸術家たちのポートレートの多くをマン・レイが撮影している。またファッション写真も撮影しており、ココ・シャネルのポートレートは最高傑作の一つとも言われている。この当時、偶然にもレイヨグラフという技法を発見している。
キキと別れた後、アシスタント志望できたリー・ミラーを助手とした。後に付き合うが結婚には至らない。ソラリゼーションはリーが発見したとされ、共同で作品をつくっていた。
第二次世界大戦が始まる頃、パリからアメリカへ渡る。ジュリエット・ブラウンと出会い結婚。後にパリに渡り生涯を終える
マン・レイは多くの作品を残したが当時最も影響があったのは写真作品だった。ポートレートファッション写真もパリ、アメリカで受け入れられ著名人、俳優やヴォーグなども撮っていた。