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名前を呼ぶ

名前を呼ぶって大切なことだ。
名前を呼ばれるって嬉しいことだ。
名前ってその人の❝象徴❞だ。


名前を呼ぶって大切だ。

就労支援の現場で働いていると、ご利用者様の中には支援員のことを「すみません」と呼んだり「先生」と呼んだりする方がいる。

他のご利用者様のことを「あなた」と呼んだり「お前」と呼んだり。
失語の影響で相手の名前を覚えられない、という方もいる。

しょうがないのかもしれない。
でもしょうがない、にしてはいけない。
それで困るのは本人自身なのだから。
だからその都度「〇〇です」と言っている。

支援員は「すみません」じゃないし、「先生」でもない。
他のご利用者様は「あなた」じゃないし、当然「お前」でもない。

人それぞれに名前がある。

就労支援という場所であれば、「すみません」と言えば支援員が気付くし、「先生」と言えば「私のこと言ってるのかな?」となる。

でも会社に就職していったらどうだろう。

「すみません」と言っても誰も気づかないかもしれない。
「先生」と言っても誰も反応しないかもしれない。
そこは支援場所ではなくて、それぞれが仕事を持っているから。

そういった場面で「〇〇さん」と呼べることで、相手も「あ、私のこと呼んでる」と気づくことが出来る。

自分を守るためにも、名前を呼ぶって大切だ。


名前を呼ばれると嬉しい。

自分の場合、名字の方がどちらかというと、珍しい部類だから子供のころから名字で呼ばれることが多かった。

名字を呼ばれることも嬉しいんだけど、名前で呼ばれる子を羨ましいなぁと思ってみていた。じゃあ「名前で呼んでください」って言えばいいじゃん、って感じだけど、当時小中学生の自分にそんなことはできなくて。そこまではしなくてもいいかな、って思ってたし。

でもだからこそ、数少ない名前で呼んでくれる友達がいるとすごく嬉しかった。もちろん名字で呼ぶ子の中にも親友はいるが。

名前って親からもらった、自分が生まれてきて最初にもらったプレゼントだ。名字を呼ばれるよりも特別感がある。名字以上に”あなた”のことを呼んでますよ、認めますよ、って伝わってくるんだよな~。これは感覚値の問題だけど(もちろん、どっちで呼ばれても嬉しいのは大前提で!)


名前ってその人の象徴である。

先日あるインタビューをする機会があった。
その方は会社を立ち上げるんだけど、立ち上げる会社名に、自分の名前の「候補」だった名前をつけた、と言っていた。

まんま自分の名前、ではないけれど、自分の名前の候補だったもの。
もちろんそこにはいくつか理由があるんだけれど、その一つとして、

「会社は自分の分身ですからね!」

確かにな、と思うとともにカッコいいなとも思った。

名前ってその人の象徴だなって。


私たちは普段、1人1人に名前がついていることを特に何の違和感もなく過ごしている。家族や友達はもちろん、話したことのない、道で通り過ぎただけの人にも名前はついている。

当たり前だ。
でも当たり前になりすぎていて、その価値に気づけていないのかもしれない。

もっともっと、自分の大切な人たちの、自分が関わっている人たちの名前を、大切にしていきたいな、呼んでいきたいなって思った。

そして何より、自分自身の名前も大切にしていきたい。

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塩浦良太
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