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「出来ていない」自分を認める余裕
かつての自分は、他の人が出来ていて自分が出来ていないことがあると心がとてもキューっとなった。
「なんで自分は出来なかったのか」
「出来たはずなのに」
完璧であることが自分の存在価値なのであり、自分は何でも出来るようでないといけない。
今考えるとちょっと生きづらい性格だったな、とも思うがきっと当時はそうだった。
出来ていない自分が認められなくて、ちょっと意固地になったり、出来るようになるまで自分を追い込んだり。
まぁある程度のストイックさはついたのかもしれないが、自分に負担をかけた分、多少寿命は縮まった気がする(笑)
でも最近になって気づいてきた。
「出来ていない自分も自分なんだ」
と。
例えば誰かがめちゃくちゃいいアクションを起こしたとする。
それを自分も思いついていたうえで行動を起こせなくて先を越されたのであればそれはものすごく後悔する。
少しは自分を責めるかもしれない。
「どうして行動を起こせなかったのか」
と。
だけど中には「自分の頭の中にはその発想はなかった」というものもある。
その時はもう「気にしない」。
気にしない、というと多少語弊があるかもしれない。
もちろん反省はする。どうしてその案が浮かばなかったのか。次はどうすればいいか、など。だけど浮かばなかった自分を責めることはしない。
それくらい心の余裕、心の余白があってもいいんじゃないかなと思うようになった。
こうやってnoteでのアウトプットを通じて、自分と向き合う時間が増えて次第に変わってきたこの感じ。
確かに完璧を求めて、出来ないことをなくしてストイックに取り組めることはすごいことなのかもしれない。
だけどそれって「つくられた人間」になっちゃう気がして。
常に基準が周囲にあって周囲との比較で自分が存在して、周りの目を気にしながら自分を補っていく。
果たして本当にそれって楽しいのかな。
過去の自分でも野球をしている自分は好きだった。
外野フライは苦手で、肩も強いわけではないし、ばんばんホームランが打てるわけでもない。もちろん苦手は練習するけどでも出来ない部分は認めた。
その分、得意なに内野守備や走塁、小技に対してはこだわりを持って。
そしてプレーには遊び心を持って。
それくらい余裕を持った方が自分らしさが生まれていた。
それは自分で「自分」というプレイヤーをつくっている感覚。
どれが正しいかはわからない。
常に完璧を求めてストイックであり続けることが正解の人もいるかもしれない。
だけど私は違った。
「なりたくない自分」を経験したことで、「なりたい自分」「ありたい自分」が見えてきた。
出来ないことがある自分も自分。
その失敗を次にどう生かすかに目を向ける。
そして心の余裕は常に持つように。
そこから新たな何かが生まれる可能性もある。
追い込みすぎない、かといって甘やかしすぎない。
自分のコントロールは自分自身で。
常に最高のパフォーマンスを。
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