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「いいもの」ってなんなのか。

「自分が”いい”と思うものを一人でも多くのそれを必要としている人に届けたい」



すんごいざっくりとした目標だが、私の中にずっとある思いだ。

経験上、

「それを、苦しんでいたあの時に知りたかった」

そんなことがこれまでにも幾度とあった。

それはシンプルに制度上の情報もしかり、「悩んでいるのはあなただけじゃないよ」という心の面での情報もしかり。その「情報」がないあまりに”貧しさ”を抱えることもあった。

もちろん自分にとっての「よい」と思うことが必ずしも全員にとって「よい」とは思っていない。だけど誰か一人、一人でもそれを必要としている人がいるのであれば届ける意味はあるのかな、と。



この思いはこれまでもずっと言語化してきた。

だから自分の経験を赤裸々にnoteの記事にしている側面もある。


だけど、だけどたまにふと我に返ることがある。

「じゃあ、”いいもの”ってなんなん?」


そしてたまに怖くなることもある。

「これって広めてもいいことなのかな?」


って。

自分にとっての”いいこと”はその名の通りあくまでも「自分にとってのいいこと」。つまり自分の解釈。それは理解しているつもりだ。理解しているつもりなんだけど、時折モヤモヤすることもある。

なんだか上手く言語化出来ない現状がすごく歯がゆい。ギリギリひねり出せる言葉として、「それを広めることが目的になっていないか」という部分には気を付けないといけないな、と思っている。

広めるだけ広めといて「あとは受け取ったあなたの責任だよ」はなんか腑に落ちない。いや、もしかしたらこれは綺麗ごとなのかもしれない。それでいいと思う人もいるかもしれない。実際にそれでもいいと思う。生みの親の責任は広げることだけにあって、あとそれをどう育てるかは受け取った人次第。

わかる。それに対しても納得はするんだけど、母体は”いいもの”であるということを担保したいというか。そこは自分の中にあるぶらしたくない芯の部分で、そこには嘘をつきたくない。

だけど広めることが目的になってしまうと、気づかぬうちに化けの皮を被った狼、じゃないけど、”いいこと”の皮を被った”悪いこと”を広めかねないな、と思っている。

それだったら自分で悪影響を広めていることと一緒だ。

自分にとって”いいもの”であるというスタートラインすら忘れてしまうのは避けたいな、と。

あくまでも自分が自信を持って”いいもの”と言えるものを届けたいな。

届ける時のベクトルは自分にじゃなくて受け取る相手に対して向けたいな。

多くの人に広めること、届けることは目的ではない。
あくまで手段だ。
受け取ったうえでその人のためになって初めて広める、届ける価値が生まれる。


そのためには常に自分の中での「いいこと」「いいもの」のを定義していかないといけない。なおかつ適宜アップデートしていかないといけない。

そして”いいもの”になるように、自分がつくっていかないといけない。

周りにおねがいするんじゃなくて、自分でやる。自分がやる。
そして一人でやるだけじゃなくて巻き込んでいく。

少しずつ少しずつ。

自分の中にある芯の部分だけはぶらさないように。

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塩浦良太
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