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自己満足でもいいじゃない。

自己満足。

それはどこかネガティブな印象を与える言葉だ。

自分のことしか考えていない。
周りが見えていない。
自分だけよければそれでいい。

確かにこういった解釈をして、こういう風に文字にしてみると結構ひどいもんだ。そりゃネガティブな印象を覚える。

でもね、ここで一気に180°考え方を変えるみたいだけど、

「自己満足でもいいじゃない」

と思っている自分もいるんだ。というよりかは、

「結局始まりは全部自己満足だよね」

の方が近いかもしれない。ただ誤解しないでいただきたいのは、無条件で「自己満足いいよね」といっているわけではないということ。条件つきだ。

その条件というのは、自己満足というものがどういったものかを知っていて、「もしかしたらこれは自己満足かもしれないけど」という気づきを持っている状態であるということ。これは必須だ。

「盲目」の自己満足はむやみやたらに牙をむく。

相手の時間を奪い、相手に気を使わせ、ひいては「あなたのためを思ってやってるのだから」と共感を促す。少し表現が強い書き方だが、わかりやすく差別化するためにこう記した。


でも自己満足かも、と気づいている状態はどうだろう。

きっとまだ言葉を選ぶ努力はする。むやみやたらには相手を巻き込もうとはしない。期待する反応が来なくても動じない。(多少は動じるかもだけど)


あんまり極論を言うのってよくないとは思うんだけど、言ってしまうと自分が発する言葉、起こす行動、記す文字って結構「自己満足」なものが多いと思っていて。あくまで自分の場合。

当たり前のことからいうと、ご飯を食べるのも自分のためだし、歯を磨くのも自分のためだし、寝るのも自分のため。

「誰かのため」を思って行動するのも巡り巡っては、その人が大変な思いをしている状態を見たくないとか、その人が喜ぶ姿を見たいとかといった「自分のため」の行動だと思っている。

でもそれでいいと思っていて、むしろその方がいいと思っていて。

潔く自分のためといってもらった方が想いを受け取る側もそこまで気を使わなくてよくなる気がする。

そもそもその想いを受け取るかどうかは最終的に「受け取り手」の判断であって、その判断まで差し出し手が決められるものではない。差し出し手が出来ることは与えるか/与えないかの選択と、与えるとしたら何を与えるかの選択・行動までであって結果までは決められない。

そんなときに、「誰かのため」が優先されているともし受け取られなかった場合、

「なんで?」

という思いが強くなってしまいかねない。「こっちがこれだけ時間かけたり、相手のこと考えてやったのになんで受け取ってくれんの?」って。

でもこれは本末転倒で。受け取るか受け取らないかは上記したように受け取り手の判断なのだから、そこまで強制することは出来ない。これこそ自己満足に気づいていない典型じゃないかと思う。


一方でそれが「自己満足」だと気づいて入れば過度に相手に期待をしない。期待をしない、って少し寂しい言い方かもしれないが実はお互いにとって優しい言葉だと思っている。

だってどちらかが自分を殺して実現される理想なんて全員が救われるものではなくて。それが望むものをすり合わせたときに合致するものがお互いにとっての理想で。自分の期待をむやみやたら相手に押し付けてはいけない


言ってしまえばこの世の多くは自己満足の集合体じゃないかと思っていて。

誰かがつくった「自己満足」を、それを必要とする人が見つけて利用する。そういった関係性で成り立っているんじゃないのかな、と思う。

自分が書くnoteも結局は自己満足。読んでくれる人全員に共感してもらえるとは思っていないし、それを期待はしていない。

だから大きな声で言う。

「自己満足でもいいじゃない」

それに気づいているのなら。

自分が書くことによって自分が救われている。

そして自分の書く言葉を必要としている人にその人の好きなように解釈していただければいいと思っている。


それだけで少し気持ちが楽になる。

書くことで自己満足はミッションクリアなのだから。

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塩浦良太
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