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わかっちゃいるけど難しい

頭ではわかっちゃいるけど、実行が難しい。

皆さんにはそんなことがないだろうか。
私にはある。

きっと1つじゃなくて、いっぱいいっぱいあるんだろうけど、
「できていないことに気づけていない」状態のものもあるだろうから、ここでは最近「できないことで痛感したこと」を書きたい。


それが、

❝「べき」論にとらわれない❞

ということ。

世の中にはいろんな「べき」論がある。

「〇〇はこうあるべき」
「〇〇はこうあるのが普通だ」

みたいな。

それって風の噂や世間一般的な声として意識づけされているものもあれば、自分が実際に見たもの聞いたものの傾向として、自分の脳内の植え付けられているものもあると思っていて。

そんな世の中にはびこる「べき」論に対し、

「べき論にはとらわれないように。普通には縛られないように」

なんて声が聞かれるようになって久しい気がする。


私自身も大学で社会学という学問と出会って一気に世界が広がった。
社会学は言う。

「自明性を問いただせ」
「当たり前を疑え」

と。

それまで「当たり前を受け入れる」ことに必死だった自分にとって、ゴーンと頭を殴られた感覚になったのを、今でも覚えている。

それからというものの、

「当たり前を疑う」

は自分の合言葉のように小脇に抱えていた。


、、、だが、だ。
にもかかわらず、だ。

世間一般的な「べき」論に縛られ、
発想の転換がまったくできていなかった事例
があった。

それはそれはまたあの頃、社会学と出会った時と同じように
頭をゴーンと殴られた感覚だ。

あれだけ意識していたはずなのに。。。


悔しさとともに、人間の脳の面白さも感じた気がする。

客観的な立ち位置をとれいていたり、自分が第三者であったり、
自分に余裕があったりする時は

❝「べき」論にとらわれない❞

みたいな、自分が意識したいことを意識できている。

その一方で、
いざ自分が当事者になったり何かに追い詰められたりした状況になると、本来意識できていたことがすっぽり抜けてしまうことがあるな、ということに。

この壁、結構分厚い。


「そんな時はこうすればいい!!!」

みたいな提言ができれば、記事としての価値がグッと高まるんだろうけれど、あいにくそれを持ち合わせていないためただのお悩み相談になってしまっている。

あえて提言することがあるとすれば、

”どれだけ意識していても、
いざ自分が当事者になると意識できていないことだってあるんだよ”

ということか。

だからできていない人を見てバカにするなんてお門違いな話というわけ。
明日は我が身よ。

気づけていない人は気づけるように意識して意識して意識するしかないし、
気づけている人は気づけていない人に伝えてあげるのが優しさかも。

そんなことに「気づいた」今日この頃。


わかっちゃいるけど、難しい。

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塩浦良太
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