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自分が凡人でよかった。

自分が凡人でよかった。

つくづくそう思う。

「そんなことないよ」
「なんだよ、嫌みかよ」

小・中学校の同級生が見たら、そう言うかもしれないし、言わないかもしれない (きっと言わない(笑))。

もしそう言われたとしても、「自分が凡人である」という考えからブレることはない。

それは誰よりも近くで自分を見てきたから。

そして勘違いしてほしくないのは、決して凡人であることを悲観しているわけではないということ。むしろ凡人であることを喜んでいるということ。

強がりなのかもしれない。


でも自分にとっての原動力は基本「できない」「敵わない」から始まっていた。

幼稚園にいた頃、マラソン大会があった。転んで、泣いて、ビリだった。最後は歩いてゴールしていたという。

それが悔しかった、、、のかは昔のことすぎて覚えていないが、そこから自然と走る機会が増えた。

気づけば小学校のマラソン大会では6年連続1位になった。


高校の野球部に入部した。

自分は身体が小さい。上級生には上手い先輩がゴロゴロいた。同級生にも上手いヤツがいた。1年生の夏、ベンチに入れずスタンドから応援していた。

チームの役に立つ手段っていくらでもある。試合に出ている人が全てではない。

だけど悔しかった。どうせなら試合に出てチームに貢献したかった。

だから夏の大会後、本気でレギュラーを取りに行った。

1年の秋、1個上の先輩からショートのレギュラーを奪うことができた。


大学生のある日、noteを書き始めた。

めちゃくちゃ文才があったら、いきなり伸びていたはず。だけどそんなわけもなくて。地道に地道に。

本当に最初は1記事にスキが3とか、フォロワーさんも130日目でやっと100人とか。

自分の伝えたいことを書く、という軸はブラさず、だけど記事の構成や文章のバランスなどは試行錯誤をしながら改善した。

そうやって日々改善していって今がある。


繰り返しにはなるが、基本的に自分はいつも「出来ない」悔しさや「この人スゴイ」という敵わなさがモチベーションになっている。

”自分も出来るようになりたい”
”この人に追いつきたい、そして追い越したい”

「努力」という綺麗な言葉で、見栄えのいい言葉で片づけてしまうのは少し嫌なのだが、自分が凡人であるからどんな努力も楽しみながら、目標を持って出来ていた。人との繋がりも広がってきた。


もし自分が天才だったら、と考えるとちょっと恐ろしい。

「出来ること」が当たり前になっていたら、「出来ない」自分を受け入れられない気がする。

他に原因を探そうとして、自分の弱さに向き合わないようになるのかも。
でもそもそも「天才」って出来ないこと自体ないのかもしれない。

でも自分一人で出来てしまうと周囲っていらなくなってしまう。

人は足りないからこそお互いのいい部分で支え合い、補い合っている。

一人で何でも出来てしまうと「楽」かもしれないけど、それって本当に「楽しい」のかな、と思う。


もし自分が天才だったら、と考えるとちょっとかわいそうな気もする。

元々出来るのだから、出来なかったことが出来るようになるという過程が味わえない。正直それだけで人生損している気がする。

何でも自分で出来てしまうから一人で完結する。それもすごくもったいない。

凡人だから、出来ないことが出来るようになる過程で自分の成長を感じられる。自分一人では出来ないから、憧れとなる人がいる、手を差し伸べてくれる人がいる、様々な出会いがある


自分が凡人でよかった。
出来ない悔しさが分かるから。

自分が凡人でよかった。
出来るようになる喜びが分かるから。

自分が凡人でよかった。
一人では「足りない」分、仲間と助け合えるから。

そしてこれからもきっと自分は凡人である。

天才になれたらいいのかもしれないけど、凡人も悪くないな、って。むしろ凡人の方がいいなって。こればっかりは天才を経験したことがないから、なんとも言えないけど。


凡人であるから、出来ない悔しさや失敗した経験が自分を強くするし、憧れの人がいるから追いつこうと努力する。自分の弱さがあるから周囲を頼りにする。

そういった生々しさ、泥臭さ、人間味があるのが凡人ならではなのかなと思う。人それぞれによって捉え方は違うだろうが、自分にとってはそんな感じ。


凡人でありたいか、天才でありたいか。

この問いに正解はないだろうし、どっちだって正解である。

ただ自分自身はどっちでありたいか、と考えてみるのも面白いのかもしれない。

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塩浦良太
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