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人生の目的は「わがまま」でもいい。

あなたには人生の目的があるだろうか。


少し壮大なテーマになってしまぅた。
単刀直入に言うと、私自身これまで人生の目的ってパッと浮かばなかった。

なんとなくの
「こうなったらいいな」とか「こうありたいな」みたいなぼんやりとしたものはあれど、じゃあそれが絶対実現できないとダメかというとそんな気はしなくて。

「生きている意味ってなんなんだろう?」

って考えちゃうこともある。

きっとそれは良くも悪くも「自分にも、他人にも期待していないから」なのかもしれない。それは期待をしてそれが実現しなかったときの無力感があるから。もっと深堀れば、「たとえ信じているのが自分一人だけだとしても、それでも実現したいものがないから」なのかもしれない。

人生の目的を掲げている人は掲げているものが壮大で、明確で、素敵で。

そんなものがパッと浮かばない自分にも、どこか劣等感があったのかも。


私は過去に自分がメモしたものを振り返る、という趣味がある。
メモ帳を眺める時間が好きだ。

過去の自分が今の自分に答えを教えてくれているような気がする。

そんな中である日、あるページに目が留まった。
そこにはこんなことが書かれていた。

「人生の目的は”わがまま”から始まったっていい。それが大きなものであればあるほどいい。」

よくいい言葉に触れたとき、「言葉が刺さる」という表現をするが、その感覚とはまた違う、「言葉が包み込んでくれている」気がした。

ありのままの、自分から出てくる想いでいいんだよ、って。


でもよく考えてみれば、世の中にあるあらゆる人生の目的だったり、理念だったりって”わがまま”から生まれているものなのかもしれない。

「こんな風になったらいいな」
「こうなれば自分が楽しいだろうな」

その”わがまま”をわがままで終わらせずに、「じゃあどうすれば実現できるか」まで落とし込んだものが目的や理念であって。

そんなことはわかっていたはずなのに、
いつしか夢や人生の目的は、壮大で綺麗なものじゃないといけないと思っている自分がいた。それを掲げて実現できないことを恐れている自分がいた。

自分の「わがまま」に目を向けていなかった。


今パッと思い浮かぶ個人的な「わがまま」といえば、

「もっともっと言葉を大事にする人、
言語化することを好きな人が増えること」

かな、って思う。

だって言葉を大事にしている人の発する言葉、紡ぐ文章は読んでいて気持ちいいから。それに言語化することを大事にする人が増えれば、自ずと自分自身と向き合う人も増えると思っていて。

自分自身と向き合う人が増えれば、「自分」のことを適切に相手に伝えられる人も増えると思う。
それにほんのちょっと、ほかの誰かにやさしくなれる人も増えると思う。


言葉にできる、って武器になる。
私はずっと、そう思ってる。

なによりそんな人が周りに増えてくれたら、私自身がうれしい。
「わがまま」ってそういうもん。

だから私は毎日のようにnoteで何かしら文章の投稿をしているのかもしれない。自分自身が言葉と向き合うことを厭わないで、言葉にするのって楽しいよっていうことを発信していく。

それが今の自分にできること。


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塩浦良太
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