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言葉に取り巻く「固定イメージ」に、新しい選択肢を。

「自分は自分のためにnoteを書いている」とよく言う。その思いにこれまでも、これからも噓偽りはない。

だけど実はしっかりと誰かに読んでもらいたくて書いてもいる。まぁそうじゃなかったらわざわざこうやって誰もが見られる場所に投稿していない。

スキとかコメントが来たら嬉しいし、フォローされたらニヤニヤする。

でもそんな、自分の言葉が何百人、何千人、何万人の感情を行動を変えることができるとも思っていない。いや、いつかはそうなれるように今頑張っている側面もあるが。


そんなこんなで自由に毎日1000字から2000字の記事を投稿しているんだけど、「自由に」と言いながら実は結構テーマが絞られつつある印象もある。

テーマも1つ2つの話ではないが、そんな中でも自分のメインテーマとしてあるのが「家族」「障害福祉」のことだったりする。

どちらも過去の実体験、現在進行形の実体験だから熱量を持って、また読んでいる方がイメージしやすいような描写も踏まえて書けている印象がある。

もちろん書きたいから書いているんだけど、どうしてこの2つが多めになっているのかな、と考えると自分が発信を通じて伝えたいことが明らかになってきた。


それが、

言葉に取り巻く「固定イメージ」を変えたい。


という部分。

以下の記事がその一例だったりする。

別に私は記事を通して「新しい定義」を提供したいわけではない。どちらかというと「新しい選択肢」を提供したいのだ。

「かわいそう」が一番わかりやすい例かもしれない。

例えば、障害を持っている方であったり、ひとり親もしくは両親がいないだったり、貧困であったりに対して世間的には「かわいそう」というイメージがついてまわる。

それに対して私が「かわいそうなことじゃないんだよ」と新しい定義を提供するのはすごくおかしな話だ。

当事者には一人一人の捉え方があり、その人の捉え方がその人の正解なのだから。自分の場合、ひとり親というのは「かわいそうなことじゃない」と考えているが、中にはそれを「かわいそう」だったり「辛かった」と思っている人もいるはず。

それも立派な正しい解釈だ。

だから自分は定義をしたいわけじゃない。

ただ選択肢として「こういう捉え方も出来るんだよ」と伝えたい。

中には障害をもっていることに対してそれを自分の中で受け止めて、そのうえで前に力強く進んでいる人もいる。中には家庭環境が不遇だったとしても、その中でどう楽しめるか、どう強く生きていくか考えて力強く進んでいる人もいる。

そうやって前を向いて進もうとしている当事者に対して、固定観念としての「かわいそう」をぶつけるのはいかがなものかと思う。


でもわからないからそうなってしまうんだと思う。

当事者じゃないから、その気持ちになったことがないから、かといってわざわざ知るほどでもないかな?と思うから、世間にある「一般イメージ」をそのまま同じ枠組みの人に対してぶつけてしまうんだと思う。


わからないからしょうがない、で済ませていいのだろうか。

その「わからなさ」から発せられるその言葉で、誰かを傷つけることがある。それくらい言葉って誰でも扱えながら、誰にでも牙をむくものだ。

ただ、わかってもらうのを待っているだけでも日が暮れてしまう。

「じゃあわかってもらうために自分は何をしたの?」

という話だ。

だから私は原体験に基づいた記事をどんどん投稿していきたい。

そしてマイナスに捉えられてしまいがちな言葉・単語の「固定イメージ」に、新たな選択肢を投じたい

定義ではない。選択肢だ。


今の自分に出来ることはそれくらい。


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塩浦良太
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