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「信じる」って綺麗だけど見方によってはズルい。

「信用の世界に住む人なんですね」

確かに自分は結構人を信じるタイプだった。

でもいざそういったメッセージをいただいた時、「自分ってそうなのかなぁ?」と思うと同時に、よくよく考えると「あ、過去の自分ってズルい人間だったんだな」と思った。

”相手を信じる”


傍から見ればめちゃくちゃ綺麗な言葉だと思う。

その一方で、見方によってはめちゃくちゃズルい言葉だと思う。

少しずつ言語化してみたい。



「信じる」の反対は「疑う」だと思う。
「疑う」ってどこかマイナスなイメージが思い浮かぶ。

自分が信頼している人に疑われていたらものすごいショックだ。

だから何も疑わず、相手を信じるって綺麗に見えるのかもしれない。



だけどズルい。

何も疑わないって、見方によってはつまり「考えることを放棄していること」につながる気がする。

目の前の課題に対して相手に依存して、丸投げして、何とかしてくれるだろうと信じる。


それで上手くいかなかった時には、

「信じていたのに、、、」

と裏切られた気持ちになる。

でもなんかこれってズルいなって。

”見方によっては”という言葉を付けたのには理由がある。なぜなら信じること自体は悪いことだと思っていないから。

常に疑われているのと、信頼されているのだったら絶対信頼されている方が相手としても嬉しい。


ここで大切なのは、「相手を信じるために自分は何をしたか」だなと最近になって気づいた。


そう考えると過去の自分はズルかったのかもしれない。

自分の一番近くの人を信じて、だけど裏切られて。
今度こそはと信じ続けるけどそれでもやっぱり裏切られて。

でもなんだかんだ変わるんじゃないか、と信じてしまっている自分がいて。


その一方でどこか諦めもついていた気がする。

「もうこれはしょうがないんだ」

って。

じゃあ信じるために、変わってもらうために自分が何をしたかって言うと、何も出来ていなかった気がする。

だからきっと、いや確実に過去の「信じる」はズルかった

考えることを放棄していた。



そのことに気づけたのはいつだろう。

正直よく覚えていないけど、「疑う」ことの重要性を感じたのは大学での社会学という学問との出会いだ。

「社会学とは当たり前を疑う学問です」

今でのその正確な意味はわかっていないけど、だけど言葉として衝撃的だった。何より、「え?当たり前って疑っていいんだ!?」と思った。

そのことに気づけた今は「信じる(+疑う)」「諦め」を使い分けている気がする。


ただただ信じるのではなく、そこに疑いの余地も持つ。

その「疑い」って決してマイナスなものではないと思っている。本当に信じてもいい状況なのか、そのために自分は何が出来るのか。そこまで考える。

それだけやれば、例え「裏切られた」状態になったとしても多少の納得はいく。


その一方で「諦め」の状態も持つようになった。

「諦め」というと聞こえはマイナスな感じだが、個人的にはこれは戦略的「諦め」だと位置づけている。

要はその物事に対して相手に対して自分が出来ることの準備段階ということ。

ただ闇雲に「信じる」で片づけようとするのではなく、常にそこに対して自分は何を出来たのか、何をしていたのかの部分を大切にしたい。


綺麗な言葉で逃げずに、真摯に相手にも自分にも向き合う。



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塩浦良太
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