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「共感」の波に溺れないように。
「記事にめちゃくちゃ共感出来ます!」
この言葉やコメントって、ものすごく嬉しい。(皆さんいつもありがとうございます😊)
直接言われるのも、書いてもらうのも。
自分が伝えたかった思い、アウトプットしたかった感情が読んでくれた方に届いたのかな、とホッとした気持ちになる。
少しでも誰かの心を動かせたのかな、って誇らしい気持ちになる。
そして同じような考えや価値観を持っている人が多いからこそ、共感していただけるのだと思っている。
でもこの「共感」って危ない。
ついついまた欲しくなってしまう。
中毒性がある。
油断すれば書く目的が「共感欲しさ」に変わってしまう。
自分の書きたいことじゃなくても、書きたい表現じゃなくても、「これなら共感してもらえるんじゃないか」そんな優先順位で、文章構成してしまいそうになる。
それくらい人を中毒に追い込んでしまうものだと思っている。
気づけば「共感してもらえるもの」という理想しか見えなくなり、何か書こうと思っても「これってどう思われるんだろう?」とベクトルが自分とは違う別方向に向いてしまい、自分自身が息苦しくなってしまう。
共感の波に溺れてしまう。
決してベクトルが他者に向くことは悪いことではない。
むしろ野球をやっていたころは、「自分にベクトルを向けるな」と言われてきた。野球は一人では成立しない。自分本位なプレーではチームプレーは成り立たない。お互いがお互いを想って、考えてプレーする。
そうすることが「勝利」という目的には最善の選択である。
果たしてnoteの目的は何なのか。
それが「スキの数」だったり、「共感してもらえる数」だったりなら共感に溺れることも悪くないのかもしれない。
そしてその選択自体は悪いことではない。むしろある人にとってはそれが正解だったりする。
だって共感してもらえるためには、「相手に伝わる」文を書かないといけない。それって簡単なことではない。狙ってそれを書けるのであればそれはっひとつの才能だ。
だけど自分にとっての目的は違う。
あくまで「自分と向き合う」場所。
いつも周囲にベクトルを向ける機会が多いからこそ、自分自身にベクトルを向ける貴重な時間。
もちろんスキの数が多かったり、「共感した」と言っていただけると嬉しい(待ってます)。でもそれは目的ではなく、結果にすぎない。
従って「共感に溺れる」ことは自分自身を裏切ることになる。
だけどnoteってある種、誘惑の大海原。
読んでくれる人皆さんが見識が高く、同じように苦しみを抱えたり、葛藤を抱えたり、だけど現状を打開するためにもがき苦しみ、それを行動に移している。
中には大きな夢や目標に向かって発信している人もいる。
そんな素晴らしい人たちに囲まれているからこそ、そういった人たちに「認めてもらいたい」と思ってしまう。
そのために共感してもらえるような文章を書きたいと思ってしまう。
そこで書く目的=コンパスがないと、気づいたら自分がどこを目指しているのかわからなくなってしまう。溺れてしまう。
素晴らしい環境だからこそ、一瞬の気のゆるみが命取りになる。
だからこそ、常に意識しないといけない。
自分の目的は何なのか。
この居場所に何を求めているのか。
ここで何を実現させたいのか。
そして結果がどうなろうと自分自身を応援したくなる選択をしているのか。
そんなことを意識しながら、自分の中でのコンパスをしっかりと持ち、今日もまた書き続ける。
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