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「才能は不平等だけど、時間は平等」

最近見つけた印象に残っている言葉。

”才能は不平等だけど、時間は平等”


才能は不平等。

ちょっと突き放しているけど、でもそれが現実で。

時間は平等。

だけど希望の光もしっかりと見せてくれる。そんな言葉のように感じた。


よく「みんなスタートは同じだ」「持っている能力は同じだ」といったことが言われることもある。

その言葉は”希望”であったり”勇気”を持たせたりするための「優しさ」なのかもしれないが、それは時に残酷でもある。

少なくとも持って生まれた能力に”差”はあるはず。

体格なのか、環境なのか、遺伝なのか。もしくはそれらすべてなのか。

「全員が全員同じスタートライン」そんな綺麗なことは言えない。だけどこれって当たり前で、一人として同じ人はいないのだからそれぞれが持っている能力だって違うはず

だから決して悲観することではない。


じゃあ「自分には才能がない」からといって夢や目標を諦めることが正解なのだろうか。

それは違う。

私自身野球をやっているとき、体格に恵まれていないため「パワー」という部分では劣っていた。しかもポテンシャルもあったわけではない。

だけど多少の偏見もあるが、「自分より体の大きい子だけには負けたくない」ということが一つのモチベーションになっていた。

確かにスタート時点では出遅れているかもしれない。ただ運がいいことにスタートしてしまえば、”1日は24時間”というルールは全人類平等だ。


私はよく周りの選手や同級生に「上手くていいな」「足速くていいな」などと言われた過去もあったが、何も最初からそうだったわけではないということを自分は知っている。

幼稚園のマラソン大会で転んでビリになったり、バッティングで打球が外野まで飛ばなかったり。

そのままが嫌だったから空いている時間を見つけてはあ、いろんな練習という名の「遊び」をして力をつけていった。

もちろんただその「遊び」に時間を費やすだけではない。

ただやみくもに練習するのではなく、同じ時間で長所を伸ばすか短所を補うかなどを考え抜いて、努力の仕方も工夫をするように。

それはまだまだ自分が「足りていない」ことを自覚しているから。上には上がいることを知っているから。


「頑張りの費用対効果」は意識していたつもりだし、今もしている。

”頑張っている自分に酔っていないか”
”努力することで満足していないか”

そういった部分の目的や手段をはき違えないように。

そして何より「楽しむ」ように。


時には楽しもうとしたって楽しくないことはある。
嫌だなと思うこともある。

それでも何とか楽しむ方法はないかと模索したり、模索していること自体を楽しんだり。そういったことも意識している(ドMかもしれない)。


小さい頃からの習慣で「与えられた時間を有効活用し、頑張る」であったり、「頑張ることを楽しむ」だったりは定着してきた気がする。


ここからさらにステップアップしていくために必要なこと。

「やらないことを決める勇気」


だと思っている。

自分の課題としては、自分がやりたいことは何でもやってみたくなるし、人から頼まれたことも何でもやってみたくなる。

これ自体は悪いことではないと思っているが、冒頭にもあるように「時間は平等」だ。1日は24時間と決められている。

全部を完璧にこなせるのなら、それに越したことはないが現状、何かをやると何かを後回しにしてしまう。そして常に何かに追われている感じ。


果たして今やっていることは本当に必要なことなのか。

自分が目指しているものにつながることなのか。


そういった「やる・やらない」の判断基準も明確にしていきたい。時間やコストを加味して。
その時に、多少の余白を設けることも忘れずに。

余白が新しいアイデアや可能性をもたらしてくれるかもしれないから。


「自分には才能がない」
この言葉は言ってもいいが、そこで「。」をつけないように

「自分には才能がない、だから時間でカバーする。」
ここまででワンセット。現状を受け入れ、じゃあどうするのかを大切に。


そして、

「時間がない」
だけは絶対に言わないように。

時間は平等にある。その決められた時間をどう使っているのかが問題なのだから。

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塩浦良太
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