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「あんな風にはなりたくない」が今の僕を突き動かす
誰しも順風満帆な生活を送りたい。
出来ることなら苦しみたくない。
出来ることなら「いい人」ばかりと出会っていたい。
でもその「いい人」ってものすごく抽象的で。そう考えると自分にとっての「いい人」像は、「あんな風にはなりたくない」という原体験の積み重ねによってつくり上げられていくんじゃないかな、って思う。
何かつらい経験をした時とか不遇な環境で育った時って、2パターンに分かれると思う。
「同じ道に進んでしまう人」と「そんな風にはなりたくないと思う人」。
こんな書き方をしてしまうと、同じ道に進んでしまう人が悪く見えてしまうが私の考えを述べるとするならばその人にすべての責任があるわけではないので必ずしも悪い、とは言えない。
でも上記に挙げた2つの差はものすごくデカい。
私には一番身近な存在に何人か、少し言い方はきついが「あんなふうにはなりたくない」と思える存在がいる。
中には「俺みたいになるなよ」と言ってくれる人もいる。まぁそれが親なんだけど。その一方でもう片方の親は「私の方が正しい」「あんな人は無視していいよ」と言っていた。
結果的に私は前者を選んだんだけど、その選択に間違いはないと現在進行形では思っている。
だって当事者の言葉には重みがあるから。
そして実際にそれで痛い目をしているのを見たことがあるし、その影響も受けたことがあるから。
そしてその近くには祖父母の存在もあった。
小さい頃から、
「親は反面教師にして頑張りなさい」
「期待しているからね」
って言われてきた。
時にそれは重く肩にのしかかり、大きなプレッシャーとなったけど、でもそれが自分自身のモチベーションや頑張る原動力になっていた。進むべき道が間違っていないんだと思わせてくれるきっかけにもなった。
「その道はおかしいよ」
と気づかせてくれる存在、教えてくれる人がいるかいないかの差は大きい。
おかしいということに気づけず、おかしいことが「当たり前」になると打開策を見つけられなくなり、そもそも問題だと認識できなくなり、それが「連鎖」につながっていくから。
そういった意味でもやっぱり人との出会いって貴重だし、尊い。
ただ、「その道はおかしいよ」と言ってくれるその人の言葉も鵜呑みにするのは危険で、いろんな言葉や助言を受け取った中で自分が進む道を取捨選択するのが理想ではあるけど。
好きなものがある裏には嫌いなものがあって。
自分の長所があるには自分の短所がある。
それと同じように、ありたい自分、なりたい自分を描く背景には、なりたくない自分が存在する。
そしてその思いには原体験があればあるほど自分の心により鮮明に刻み込まれ、輪郭がはっきりしてくる。
そんなことを身を持って親が教えてくれたと思うと、大変だった過去も高い授業料だったな、くらいの気持ちになれる。
そして素直に「こういう風にはなるな」と言ってくれる方が信頼できる。
自分には「あんな風にはなりたくない」というロールモデルがいる。
そしてそれが自分の選択の基準を明確にしてくれている。今の自分を突き動かす。
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