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気配りの総量

人間好き嫌いがあれば、合う合わないがあるものだ。
だって育ってきた環境、触れてきたものが違うのだから価値観だって変わってくる。

何かと「違う」ということに対しては拒否反応を示しがちなもので。
その中で「同じ」部分を知ることで距離が近づいていくんだけど、それでも合う合わないはあると思っている。

別にそれが悪いことだとは思わないし、そういうものだと思う。
私の好きな言葉の1つに、

「合うものに会っていく」

という言葉があるが、まさにこれだなと。

ただもちろん「好き嫌い」「合う合わない」だけで人間関係をやっていくことは到底不可能で。折り合いをつけながらやっていくことが求められる場面だってある。


と、前置きはこのくらいにして。

この記事では「じゃあ合う人ってどんな人?」ということについて考えてみたい。

考えてみたいのだが、これって感覚的なものだなと考え始めてから気づいた。ただそこをちょっと深掘りして。

合う合わないを決める要因はいくつかあるだろうという前提のもと、その1つとして浮かんだのが、タイトルにもある

”気配りの総量”

なんじゃないかなと思った。

人間生きていると何かと気配りをしているものだ。
言葉を使ってやり取りは出来るけど察して動こうとするし、言葉を用いたとしても様子をうかがったり、相手のことを考えて言葉を選んだりもする。

「気を遣わなくてもいい関係」みたいな言葉もある。それがいいのは言わずもがなで。ここでの「気を遣わない」と「気配り」はまた別ベクトルだというのが自分の考え。

気を遣うって基本相手主体、気配りって自分主体、
気を遣うってした方がいいからしている、
気配りってしたくてしている。

細かなニュアンスの違いだし、これが正しいとも限らないからあくまで自分の定義として。

そういった定義も含めて”気配りの総量”が近いって結構大事な気がする。

過剰に気配りされていると感じると、

「気を遣わせてないかな」

とかえってこっちが気になっちゃう。

逆に気配りがあまりされていない感じがすると、

「自分がいろんなところに目を配っていかないと」

と疲れちゃう。

これって「しなくていいよ」というのも違うし、「もっと気配りしてよ」というのも違う。何が正解とかじゃないし、何なら1人1人が正解だし。だから”感覚”なんだろうなと。だから”合う合わない”なんだろうなと。


ふとそんなことを思った。

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塩浦良太
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