見出し画像

言葉を残す、言葉で残す。

先日Twitterで素敵な投稿を見つけた。

投稿を見た瞬間、ビビッときた。

言語化されるより先に、感覚的にくる感じ。たまにある。
そしてきっと何よりそういうものの方が本能的に求めているものなんだと思う。

【私が消えても私を残す】 

すごく素敵な言葉。


私が意識している言葉がある。

「人生において大切なのは”何を得るか”よりも、”何を残せるか”だ」

これはTEDという世界でも有名なプレゼンテーションステージが日本で行われた際に、ある日本人の方が発表した中で出てきた言葉だ。

私たちは生きていく中でいつか必ず死ぬ。死んだ先の未来は正直わからない。何か”得た”ところでその得たものを持ってかえれるかどうかはわからない。そんな不確かなことを目標にするよりも、自分が生きた証を、形として何か残せた方がいいんじゃないか

簡単な解釈としてはそんな感じ。ここには多少私の考えも含まれている。

私はこのプレゼンを聞いて「確かにな」と思った。

「せっかくなら自分も何かを残したい。でも自分に何が出来るのか」



そんな中でたまたま上記のTwitterの投稿を見つけた。

「デザインという武器を使って、私が生きた証を残していくのが夢。」

冗談抜きで鳥肌が立った。「すげぇ」と思った。こういった投稿に偶然出会うことが出来るのがSNSの魅力の一つだと思う。



そこで私は考えた。

自分なら何かな。
何を残せるかな。

デザインはセンスがない。中学の通知表はいつも美術だけ低かった。
ものづくりもセンスがない。小学校の通知表はいつも図工が低かった。

別にセンスがないからといってその可能性に蓋をしているわけではない。もしかしたら10年後めちゃくちゃすごいデザインを作って残しているかもしれない。でも少なからず”今”ではない

今この瞬間から残せるものは何か。

答えは最初からもう出ていた。

言葉だ。

noteをずっと書いている。

少なくとも約2年言葉と向き合ってきた自負はある。
その扱い方が上手いかどうかは別として、少なくも自分は言葉にすることが好きである。


”言葉はその時の熱量のまま保存される。”

たまに小さい頃に書いた日記を振り返ると、「うわー、なに書いているん。恥ずかしい(笑)」と思うこともある。でもそれも形として残っているから得られる感情で。そこに言葉が存在しなかったらその感情は湧かなかった。

”言葉は他の誰かにとっての「説明書」になる可能性もある。”

かつて自分が苦労した経験、上手くいった経験、きっとそこで得たものがある。「苦労は買ってでもしろ」という言葉がある。でもなかには買う必要のない苦労もあると思っていて。買う必要のない苦労は、買わないためにも誰かの過去の知見が役に立つんじゃないかと思う。

それに未来の人が自分の残した言葉を見たとき、「同じような境遇で戦ってた人がいるんだ」と言葉が残っていることで感じる。人間ってしんどい状況に立たされると、まるで自分は世界で一人この苦労を味わっているんじゃないかと感じる。そんなとき「一人じゃないんだよ」ということを伝えられたらいいな、って。

その一方で「自分以外にも苦労している人がいる」「大変なのは自分だけじゃない」と思う人もいる。そんな人に対しては「あなたの苦労をわざわざ誰かと比較する必要はない。あなたが辛いと感じたらその気持ちから目を背ける必要はないよ」と優しく語りかけながら、「それでも前に進んでいこうね」、そんな背中を支える言葉を残していきたい。

自分には自分の苦労してきた過去がある。

そんな自分だから残せる言葉で。


”それに言葉はその人が生きた証にもなる。”

それは私もそうだし、私以外の人を言葉にしたとしても。
たとえその人がいなくなっても、その人を表現した言葉がそこに存在する限り、その人がやってきたことは残る。そして語り継がれる。

歴史上の人物だって文字として残っている方語り継がれている情報だってある。



そしてもう一つ言葉を残す狙いがある。

自分が言葉を残すことで、読んでくれた人たちがその人自身の言葉と向き合う機会を提供できたらな、ということだ。

言葉は誰かを救う薬にもなる一方で、誰かを傷つける凶器にもなりうる。

もっと自分の発する言葉に意識を向けられれば、凶器になる手前で止められるはずだ。

それに、自分が発する言葉に愛情を持てる人が増えたら、今よりももっと優しい世の中になるかもしれないと思う。


だから私は言葉を残す。

いいなと思ったら応援しよう!

塩浦良太
今後の記事の質向上のための資金として使わせていただきます!

この記事が参加している募集