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「何者」って何者?
「何者かになりたい」
そういった議論って最近結構されている。
自分自身もそのようなテーマを定め記事にしたことがある。
「安定」や「終身雇用」といった概念が徐々に薄れてきている今の時代。
個人で出来ることを増やしたい、力をつけたい、そう思う人が増えているのではないだろうか。その結果が「何者かになりたい」という気持ちに、焦りにつながるんじゃないか、と思う。
そりゃ私だってなれるならなりたい。
でもその「何者か」って結局何者なのかわからない。
そう、「何者」のゲシュタルト崩壊。
きっと自分の言葉一つで周囲を動かしたり、自分の行動一つで局面を変えたり、そんな「力」をイメージするのが簡単なのかもしれない。
つまりは「なにを言うか」ではなく、「誰が言うか」。
カリスマ性を持った人の言葉の方が多くの人の心を動かす。
何を言っているか以前に、「その人が言っているならそうなのかもしれない」と思わせる力がある。どこか宗教チックなところもあるが、でもカリスマってそういうことだと思う。
じゃあカリスマ性がないとダメなのか、というとそんなわけでもないと思っている。
もちろん中には生まれながらにして、言葉に力を持つ環境で育った人もいるかもしれない。だけど多くの場合、そのカリスマの背景には実績があって、実績のための行動があって。だからこそ言葉に説得力が生まれる。
つまり、「誰が言うか」に至るまでの道のりには「何を言うか」の積み重ねがあって、それを実現してきた過去があって実績があって。
やがてその実績が説得力となり、言葉に力を持つことにつながる。
私はnoteを通じてそれを感じている。
最初は本当に「スキ」もつかない。フォロワーも増えない。そんな周りにとっては何者でもない自分。
それが継続して投稿をし、改良し続けていく中で自然と「スキ」が増え、フォロワーも増えていった。
noteを書き始めた頃は「○○という記事を書いている誰々」という見られ方だったと思うが、今となっては「誰々が書いている○○という記事」という見られ方をされるようになってきているんじゃないか、と思っている。
自意識過剰だろうか?(笑)
だからもちろん言葉選びにはより配慮が必要になってくるし、かといって自分を殺した文章は書きたくないという葛藤もあるのだが、そこはいったん置いておいて。
何者でもない人間が何者かになるためには継続と改善の繰り返しが必要で。それはつまり、継続と繰り返しさえできれば、誰もが何者かになれるチャンスはあるということだと思っている。
でもその継続っていつまで継続すればいいのか、その答えが誰にもわからなくて。
だから、
「頑張る」ことは簡単だけど、「頑張り続ける」ことはめちゃくちゃ大変だよ、でもその差がめちゃくちゃデカいよ。
と自分にはいつも言い聞かせている。
もちろんあらゆるすべてのことを頑張り続けられたらいいんだろうけど、それって結構大変。頑張り続けるにはそれだけの時間を使うし、労力を使うから。
だからこそまずは「これだけは譲りたくない」と思うことを見極めることが大切なのかな、と思う。
そしてそれをただひたすら継続していく。すぐに結果が出ないとしてもめげずに。成果が出るまで継続する。
成果が出るころにはきっと習慣になっているし、継続して成果が出たという経験が今後の自分の励みになる。
だから最初は1つでもいいと思っている。
何か1つ頑張り続けることを決め、ただひたすらに続ける。
それが何者かになれる近道なのかな。
まぁ、何者かになる、ならない以前に自分は自分だ、ということを見失いたくはないけどね。
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