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みんな違って、それでいい

「みんな違って、みんないい」


恐らく誰もが一度は耳にしたことがあるであろうこの言葉。

これは詩人である、金子みすゞさんによってつくられた詩「私と小鳥と鈴と」に登場してくる一文である。

私が両手をひろげても、
お空はちっとも飛べないが、
飛べる小鳥は私のように、
地面を速く走れない。

私がからだをゆすっても、
きれいな音は出ないけど、
あの鳴る鈴は私のように、
たくさんな唄は知らないよ。

鈴と、小鳥と、それから私、
みんなちがって、みんないい。

ものすごく素敵な詩。

この詩のおもしろさは、タイトルには「私と小鳥と鈴と」という順番で書かれているが、詩の最後には「鈴と、小鳥と、それから私」とタイトルとは順番は逆になっている。

その様子からも大切なものに順番があるのではなく、どれも対等に大切なのだということを教えてくれている。


・・・


加えてこの言葉もご紹介したい。


「みんな違って、みんなどうでもいい」


これは落合陽一さんがNewspicksのコンテンツの一つでスピーチをした際に、出てきた言葉である。


「みんな違って、みんないい」

これはものすごくいい言葉だけど、
それは時に自分を窮屈にしてしまうのではないだろうか。

これはどんな人に対しても
その良さを受け入れ「なければならない」
と、時に捉えられがちである。

中には自分とは相性が合わないと思う人もいるかもしれない。
それは人間の宿命でもある。

その人自身を、自分とは「違う」相手でも好きになれるのが理想なのかもしれないけど、そんなに甘いもんじゃない。

そんな時に、「みんな違って、みんないい」を本来の解釈でなく、良さを「受け入れなければならない」と、一種の強迫観念のように思ってしまったらそれってめちゃくちゃ窮屈だ。

確かに人との出会いは「一期一会」というくらいだからとても大事。

だけど出会った人全員とこれからも一生をかけて付き合っていくか、というとそういうわけではない。

一生付き合う人もいれば、その場限りの人もいて、一生付き合いたかったら連絡をとればいいし、それが嫌だったら連絡をとらなきゃいい。

ある種、自分で選択できる

だから実は、全員の考えや思いに納得できるよう頑張ろう!と意気込んでしんどくなるくらいだったら、自分の価値基準を明確にして「どうでもいい人はどうでもいい」といった割り切りも必要であるということを教えてくれているのが、

「みんな違って、みんなどうでもいい」

という言葉だと思う。

もちろん、「どうでもいい」と相手に伝えるのではなく、それは自分がそう思っておけばいいだけの話。わざわざ相手に伝える必要はない。

・・・

「みんな違って、みんないい」
「みんな違って、みんなどうでもいい」

こうやって2つの言葉を並べてみて、全く違うことを言っているように見えるけど本質は似ていて。だけどついつい間違った解釈をしてしまいそうで。


上の文だと、上記したように「無理やりにでも相手の良さを受け入れなければいけないのか」といった発想になってしまいそうだし、下の文だと「どうでもいい、ってなんか冷たくない?」といった発想になりそう。


それらすべてを考慮した上で、私が思うのは、

「みんな違って、それでいい」

ということ。

調べるとそういうタイトルの本もあるようだ。

どうしてこの考えに至ったか。


以前こんな言葉を目にしたことがある。

「”多様性”という言葉は、”同質性”という言葉があるから存在している」

すごく真理だなと思う。

大きい人もいれば小さい人もいるから「大きい」「小さい」という概念があるのであって、それと同じく「同じであろうとする=同質性」というものがあるから「違いがある状態=多様性」という概念が生じる

違いがあることが「当たり前」になれば、いつしか「多様性」という言葉自体もなくなっていく気がする。

それが理想の状態なんじゃないかな、と思ったり。


だからこその、

「みんな違って、それでいい」

変に近づく必要もないし、変に距離を置く必要もない。

一人一人は「違う」ことが当たり前であって、そのうえで関わり合いながら、助け合いながら生活していく。

それくらいの感覚がベストなんじゃないかな、と思った。











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塩浦良太
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