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地獄の淵まで(小説)

(小説「堕ちる犬」からの抜粋の掌編です。一つのSM掌編としても完成しているので抜粋して載せています。興味を持たれた方は、下リンクから本編へ飛べます。二条過去編①)

「薫君、二条薫君だろ、君。」

 大学備え付けのジムから出たところで、薫は見知らぬ男に声をかけられた。男は細身ではあるが、身長はどこに居ても目立つ薫と同じ程度はあるようだった。同じくジムから出て来たばかり、というか、ジムから出ていった薫を走って追ってきたらしく、軽く息を切らしていた。紺色メッシュのタンクトップから伸びるしなやかな腕に、染み出たばかりの汗の粒が浮いていた。全体的に締まっているが、服を着れば普通の人間と変わらないように見える体躯だろう。薫は一瞬で彼の服の下の身体つきを思い浮かべ、衣服の下の人の肉を反射的に観察した自分を癖を恥じた。
 それにしても、男の気さくでさわやかな笑みは、入学したての頃に部活に勧誘してくる上級生達の笑み方によく似ているのだった。なるほど、6月も半ばになってまだ勧誘してくる馬鹿がいるのか、と思った。

 中学から高校にかけて学生柔道のあらゆる大会で、ある一戦を除けば、華のある成績を記録していた薫の名は、業界では大変有名だった。柔道の成績による大学推薦、他の大学の団体からの直接的な申し出等も多かったが、薫には、これ以上柔道を修める気力も、情熱も無かった。道着に二度と袖を通す気は無い。
 
 最初から計画していたように、国で最高峰の大学の法学部に一般入試で現役合格した。それで官僚にでもなれば誰も文句は言わない。言わせない。

 薫は今年の4月に大学に入学してからというもの、どの部活にもどのサークルにも参加せず、全ての勧誘を断っていたし、その上学友を作る気も特に無かった。授業に出ている誰も彼も知能は高いかもしれないが、自分とは根本的に違う生物に見えるからだ。

 ガリ勉ばかりかと思えば、勉強を器用にこなす人間は、自分の身体をも器用に扱えることが多い。スポーツも要は頭の使い方と言える。意外と体育会系の部活が活発なのだと入学してからわかった。流石に団体競技では、体育大学や勉学より部活に力を入れている大学には到底勝てないが、所属する個人が、悪くない成績を残している場合は多々あるらしかった。そのような状況下で、薫は柔道部に限らず様々な体育会系の上級生から勧誘を受けては全てを退けて回った。大学のジムの設備はかなりよく、身体を鍛えることだけは続けていた。

 男は首にかけた白字に青のラインの入ったタオルで汗をぬぐった。薫は「そうですが。」とぶっきらぼうに言ってさっさと歩き出した。男はそっけない素振りの薫の横に並んで、歩きだした。なれなれしい奴だな、薫は口には出さないまでも、あからさまに嫌な顔をして俯いて歩き続けた。そういえば、ジムで何度か見たことある男のような気がする。気のせいと思っていたが、視線を感じたこともあって目が合ったこともある。一方的に名を知られて観察されていたかと思うと気分が悪い。

「目立つからすぐにわかったよ。良い身体してる。」

 男が言った。誉め言葉のつもりだろうが、聞き飽きた台詞だった。さっさと大学の敷地から出てしまいたい。自然と早足になっていく。

「そんなに急いでどこに行くんだい。デートの約束でも?」
 
 男はめげずに矢継ぎ早に話しかけてくる。

 薫は足をおもむろに止めて、ようやく正面から男をまじまじと見た。シャープな輪郭の割には瞳が大きく、涙の量が多いのか瞳の端が官能的に濡れているのだった。気さくな感じと言い、爽やかな声の調子と言い、どちらかといえば甘めの顔で、女によくもてそうだと思った。薫は男に冷ややかな顔を向けた。

「どなたか知りませんが、どうせ、勧誘だろ?俺にかまわないでください。どこに入る気も無いすから。」

 男は笑顔を崩さないまま「どうもそうらしいね。」と言い、徐に件の腕を伸ばしてきたかと思うと、薫の左肩を強い力で掴んだ。思わず歯を食いしばっていた。相当な握力がある。身体の鍛えられ方が本物だとわかる。薫は久しぶりに他人から加えられる痛みを味わった。

 薫はゆっくりと横目で掴まれた肩を見た。長い指が肩に遠慮なく食い込んだまま、離そうとしない。何て失礼な奴なんだろう。視線を肩から彼の方へ向けて強く睨みつけると、彼は声を上げて笑った。そうかと思えば、ゆっくり瞳の中の笑みを消し、口元には笑みを浮かべたまま、さっきと打って変わった冷ややかな目つきをして薫の耳元に顔を寄せて耳打ちした。

「Eagle280」
 
 心臓の動きが一瞬早まる。
 さっきと打って変わった、いやな、粘ついた感じの声が耳の中に張り付いた。
 目の前に首から下の引き締まった男の裸体がありありと浮かんだ。
 食い込んだ指と肩の間で激しく血が脈打っていた。

「俺だよ……昨晩遅くまでやり取りしてたろ、Grizzly君」

 Grizzly Manは薫がゲイ向け掲示板に登録した安直なハンドルネームだった。地域別に分かれ、付近に住んでいる”お仲間”もわかる掲示板には、若者から壮年までの男の肉体の写真がずらりと並ぶ。10日前から、半径5キロ以内に住んでいるらしい「Eagle280」という男と完全なヤリ目でメールでやりとりしていた。
 真剣な交際を望む者が、あの欲望の臭いのぷんぷんする掲示板の中にいるはずもなかったし、薫自身全く望んでいなかったのだった。自分の爛れた理解されない欲望を、どうして親しい相手に向けられるだろう。掲示板では誰も彼もが自分の自慢の身体を誘うように競うようにアップロードしていた。薫は彼らを冷笑的に眺めながら、自分自身を最も冷めた目で見ていた。
 薫の若さと肉体をもってして攻略できない男は殆どいなかったが、薫の方が先に飽き、定期的に会うような男はいなかった。

 肩から手が離れていった。薫はEagle280から距離をとるようにして、二三歩下がった。Eagle280がまさか同じ大学の人間とは思いもしなかった。それから、向こうがこちらの素性を知っていて、こちらが知らなかったその状況に苛立ちと焦燥が沸き起こる。ジムにはほぼ毎日通っていたが、その間ずっと一方的にそういう目で観察され続けていたのだ。

 Eagle280は、薫の顔が険しくなるのを眺めながら、飄々としていた。

「どうせ今日会う約束だったろ。どこで会ったって同じさ。ちょっと付き合ってくれよ。ああ、そうだ俺の本名を先に伝えないとフェアじゃないね。俺は間宮。間宮壮一。ここの理工学部の3年だ。よろしく!」

 彼の口調は再び爽やかなものに戻っていた。薫は差し出されたしなやかな手を見下ろしながら「……で、どこに付き合えって?」と無意識に聞いているのだった。壮一は薫が握り返さないのを特に咎めず手を引っ込め、そのまま親指で後ろを指してまんべんの笑みを浮かべた。

「プロレス研究会!」

 帰ろう、こんな奴、気味が悪い、どうでもいい、と思いながらも、壮一の横に並んで歩いていた。壮一との、ここ10日間のやりとり、身体の写真の交換の数々、射精の痕、実際に見た肉の感じ、獲物を逃がしたくないという思いが、薫の脚を帰り道と反対の方に向けてしまう。性欲が理性に勝てていないのに苛立ちを覚える。性欲。これほど厄介なものもない。しかも、良い獲物と思っていたはずが、獲物にされていたのは自分の方かと思えば、ほがらかな壮一と反対に、薫の顔は険しくなるばかりだった。気が付けば、プロレス研究会のトレーニング施設まで来ていた。

 壮一が中に入ると「お疲れ様です!」と方々から威勢のいい声がかかった。好奇心と歓迎、敵意のような物が入り混じった視線が無遠慮に薫の方に投げかけられた。壮一は一人一人に笑顔を向けて「おつかれおつかれ」と手を上げながら、返していた。一人の髪を金髪に染めた男が小走りに近寄ってきて、壮一と薫を交互に見上げた。

「入会希望者ですか?」
 違う、と薫が否定する前に壮一が「違うよ。」と男をさめざめとした感じで見下ろした。
 そして、薫に向けるのとは違う、冷ややかな笑みを浮かべた。

「俺が自分で誘ってみたのさ。たまにはいいだろ、そういうのも。」

 周囲の空気が、軽くざわめき、直ぐ静かになった。男達の視線がさっきよりも遠慮なくとげとげしく鋭く薫にまとわりつくのだった。金髪の男に向けていた瞳とは違う目つきで、壮一は薫を振り返る。

「二条君、別につまらなかったらいつでも帰って良いから、好きなだけ見学していきなよ。ああ、でも俺がリングの上にあがるところくらいは、見てほしいかな!嫌ならいいけど。わからないことがあったら彼、浅葱に聞くと良い。浅葱!お前は簡単に二条君を案内してやれ。俺は着替えてくる。」
「わかりました。」

 浅葱の返事には最初に壮一に「お疲れ様です」と言った時の調子からは少し外れて、何か言いたげな雰囲気があったが燻っていたが、壮一がさっさと奥に引っ込んでしまったので、薫と浅葱の2人が残された。浅葱は薫の方へようやく向き直り「部長の命令だからな、案内してやるからついて来い。」と険のある調子で言った。壮一がここの主であるということに、薫は一寸意外さを感じたが、すぐさま写真の中の引き締まり優れた裸体を思い出していた。
「ほら、ぼーっとしてないで、行くぞ。」
 薫が浅葱の背に向け「えらっそーに……」と口の中で小さくつぶやいたその瞬間、浅葱の腕が攻撃の意思を持って伸びてくるのが見えた。考えるよりも先に避け逆に腕をとって、浅葱の腕を背中側に回して捩じり込んでいた。浅葱がくぐもった声を上げて咄嗟に手を離したが、近く居た部員達に「何をやってる!」と双方引き離された。

 新参者の薫ではなく浅葱の方を、部員達は嗜めた。浅葱は肩で息を切らしていたが「何でもないっ、少し遊んでただけだ」と誤魔化した。壮一の眼の無いまま場がおさまり、それぞれ散っていく。浅葱は薫と目を合わせないまま、さっきのことなど忘れたように、淡々と中を案内し始めた。薫は若干の不快と愉快を感じながら、汗臭いしかし不快ではない饐えた臭いの漂う建物の中を、たっぷりの視線を感じながら歩き回った。

 ロッカーの影から会話が聞こえる。
「……っへぇ、壮一さんが自ら人を連れてくるなんて、初めてなんじゃないか?」
「アイツ、二条だろ?ほら、柔道で全国の。」

 紺地の薄手のTシャツにラフなショートパンツを身に付けた壮一が出てきてリングの上にあがると皆の視線は、まるで潮の引くように薫ではなく壮一の方へ惹きつけられていくのだった。
 
 彼はリングの上から次々部員を呼びつけて、稽古をつけ始めた。プロレスについては無知の薫だったが、自分の柔道の経験から見ても、壮一は受け身が抜群に上手いことがわかる。攻撃を主体的に挑むように受けて、致命傷にならない程度に受け身をとっては立ち上がり、また受け、最後に仕掛けていく。蝶のように舞い蜂のように刺すのが彼のスタイルらしかった。プロレスの舞台ではヒーロー役、ヒール役が割り当てられることがある。試合を盛り上げるためには、一方が一方を蹂躙するような闘いは適してない。やられ、やりかえす、物語性が必要だ。だから何より、どんな派手な攻撃でも受けられること、受け身が上手いことは、プロレスを嗜む者の才覚の1つと言えるだろう。

 壮一は、攻撃の指導も受身の指導もした。彼はリングの上では自分の役目を果たすことに集中していて、薫のことは視界の端くらいにはとらえていただろうが、活動に重きを置いていた。そのことは薫の気を軽くするのだった。見られていた分、見る番だ。そう思えば。
 プロレスは格闘技と言うよりショーである。如何に戦いを美しくそして愉しく魅せるかのショーだ。見ている内、帰ろうという気持ちは自然と消えていた。2時間程彼らの戯れる姿を目におさめた。壮一がリングから消えて、薫の元に、学生らしいラフなシャツを着た私服姿で、学生らしいショルダーバッグをかけ、舞い戻ってきた。さっきまでリングの上で舞っていた男とは思えない。バッグから教科書かレポートらしき束がはみ出ていた。

「ああ、疲れた。今日はもう俺は帰る。飯行こうぜ。勿論来るだろ。」

 再び視線が二人の方に集まっているのを薫は身体中に感じながら、頷く代わりに彼に背を向けて施設の外に先に出た。
 
 夕闇の中、黙って銀杏並木を歩いていた。壮一には、薫が何か言うのを待っているような風情があったが、薫は薫でむっつりと黙っていた。学生街の中にある古臭い中華屋に入った。体力を相当に消耗していることを表すように、身体に見合わぬような量の料理を次々頼む。店主も慣れたものらしく、はいはい、と注文を聞く。薫もそれに合わせ、狭いぎとぎととしたテーブルの上に、所狭しと四人前はある料理が並んだ。

 彼は大盛りの炒飯を豪快にかき込んでいく、咀嚼する度、彼の顔と喉の筋はごくごくと良く動いた。大きく開いた口に次々と食べ物が吸い込まれていて、見ているこっちが気もちいいくらいだった。空になった皿の横にたっぷり水の入ったグラスが汗をかき、壮一はそれを一気に飲み干し、薫を見て言った。

「なかなか、良かったろう。」

 彼の唇は食物を食らった油でてらてらとして、微笑みが野生じみて見えた。壮一は蓮華をまだ手を付けていない天津飯の方に伸ばしかけ、また豪快に口に運ぼうとする。薫は口に運びかけていた箸を止めて彼を見た。

「……。何が?舞台の上に立った自分の肉体自慢か?」

 二条は嫌味を込めて言った。
 壮一は口に運びかけていた蓮華の手を止め、まじまじと薫を見て、身体を逸らして豪気に声を上げて笑った。

「急かすなよな。飯より先にそっちが良かったかよ。でも駄目だな。エネルギーを補充しないと流石にもたない。特にお前が相手だろ。いっぱい食べとかなきゃな。お前も。俺が奢るから好きなだけ喰えよ。遠慮なくな。」
 
 2人は気持ちがいいほどよく食べた。空になった脂ぎった皿がテーブルの上に行列になっていた。

 ホテルのベッドに腰かけて、裸体の壮一が伸びをし、服を脱いで立ったままでいる薫の方を上目づかった。
 大きな瞳が妖しげな色を讃えて薫を捕え、圧倒した。

「遠慮してるのか?」
「遠慮?」

 薫は言葉を続ける代わりに、目の前の男に覆いかぶさり押し倒し、背後から勢い抱いた。身体同士が絡まり合いはじめベッドの上を転がり、薫は背面から勢い壮一に挿入し、前後運動を始めた。
「ぐ……」
 どちらの口からも言えず小さく低い声があがる。良く引き締まった尻が、ぱちゅん!ぱちゅん!と瑞瑞しい音を立てながら子気味良く揺れていた。しかし、薫がいくら彼の身体を貪っても、腰を強く突き動かしても。彼は、途中からくすぐったげに、吐息交じりに笑うだけだった。代わりに熟れた肉が誘い水のように、余裕をもってきゅうきゅうと締まり、薫の肉棒を抱き留める。調子が狂う。いままでこんなことはなく、大体の男はよく啼いたから。時折温泉にでも入ったような、はぁ~、という息と共にくすくすと笑い声をあげるのだった。それが薫をムキにさせ背後から、彼の肩の肉に指を食い込ませ、圧し潰すように彼に身体を押し付け一層激しくした。先に薫の方が息が切れかけているくらいだった。彼は背後から薫の雄を受け入れながら薫を振り、目を細めて見上げ、高い声で笑って、また頭を伏せた。突く度、壮一の肩甲骨がしなやかに準備運動でもするように蠢いていた。そして、「なんだよ、こんなものか、ぁ」と吐息の隙間に小さく壮一が言うのが薫の耳に聞えた。

 薫の中で燻っていた火が、ぱちり、と、音を立て、小さな火花が弾けた。
 気が付くと薫の手が、壮一の顔面を覆い、言葉の一つ、呼吸の1つもできない程、強く掌を押し付けていた。

「うるせぇんだよ……黙ってろ、てめぇが……てめぇがそんな調子だからこっちは集中できねぇんだろ……?」

 目を見開いた薫の声が低く腹の底から湧き出て、壮一の明らかに動揺した声が薫の大きな手の中で小さく上がった。薫のもう力も入らぬと思っていた腰、全身に漲るように力が漲ってくる。全身の毛が逆立つように。炎の燃え立つように。同期するように、壮一の渓谷に突き立てられた雄鉾がみるみる炎を帯びたように熱くなり立ち上がり、獣じみた力を持って大きくなっった。薫の喉の奥の方からも、さっきまでの焦りの混じった吐息と違う、咆哮の気配の混じる獣臭い息が漏れて、全身が発汗した。
 
 ベッドの上を転がるようにして、雄根を、さっきと変わって全身を強い筋で強張らせた壮一の中に突き立てたまま、彼を自分の上に仰向けにさせた。天空に壮一の男根がぼろんと、剥き出しになる。明らかに最初より大きく反り立って紅くなり、青筋を立てていた。薫は、横目で淫らな彼の力点を見、それから彼の首筋に唇をあてた。そこに、声の呻き啼くのと、はち切れんばかりの速さの鼓動が動いている脈動を感じた。食い破るように噛むと上で身体がのけ反る。味わうようにしながら唇は、壮一の真っ赤に染まった耳元に到達した。酸味の強い、良い香りがした。ぐ、ぐ、と呼吸にも言葉にもなっていない喘ぎが漏れ続けて、生暖かい唾液が薫の手の中に溜まっていった。

「なんだァ?こういうのが良いのかよォ……さっきより随分とでかくなってるぜ。」

 くぐもった悲鳴が上がる。薫の手が乱暴にいきり立った壮一の物を握り、乱雑に上下にしごき転がしたのだ。みるみる強い力で顔を抑えつけることで、薫の手の中で壮一の雄はもちろん、内も内側から火で燃やされているように熱くなる。壮一の肉筒の筋はさっきまでのチャラチャラした調子をすっかり無くし、弦を張った弓のようにに張り付めながら、薫との間に寸分の余裕なくぎりぎりと引き締まり、雄は打てば打つほど熱く硬くなる刀のようであった。薫は自分の中の血が正しく流れ始めるのを感じた。

「へぇ~……とんだド変態だな、間宮部長は……犬みてぇにだらだらと涎まで垂らしてよォ……ええ?」

 そのまま深く、壮一の中に入りながら下からガシガシと突きあげながら、彼の顔に手を押し当て続けると、ビクビクンと薫の上で壮一の身体が揺れ、淫らな塔はさらに淫らさに勢いを増した。簡単に意識を落としてしまってはつまらないから、時折指の間に隙間を一刻だけあたえ、またすぐ覆う。薫が壮一の熱くなった顔を覆っていた掌を一瞬離すと、ひっ、と、怯えるような引き攣れた呼吸音が出て耳に良い。
 
 二言目が言えぬほど、いや少しの息継ぎも許さぬと、今度は腕を首に絡ませ、力を込めてぐんぐんと締めた。
「ん゛ん゛…っ…、ふ……ぐく………」
 壮一の跳ねあがり暴れかけた脚に、薫は自分の脚を絡ませ、動けぬように力を込めた。絡まった脚同士が筋の音を立て、最後に壮一の方がぐたりとなる。そうなっても力をこめるのは止めず、寧ろ強めて、ベッドの上、薫の豊かな身体の上に縫い留めたままにしておく。ふぅふぅと苦し気な息が漏れ続け、彼の背中から湧き出た汗で絡み合う二人の間はぬるぬると滑る。
 
 腕の中で、壮一の喉ぼどけがころころと逃げ場所を探して蠢いた。溺れるような悲鳴をさせる壮一だが、反対に一物は極度の盛り上がりを見せ、今までで一番の発達。奥の穿たれた熟れた肉の中が熱く溶けるようになるのを、鋼鉄のようになった薫の楔が、どこまでも底の無い淫沼を深く強くガシガシと穿つのだった。その度ベッド自体が跳ねているような激しさ。どすんどすん大きな音が立つ。壮一からは部屋全体が揺れているように思えた。

 部屋中が熱気に湿り、性行為ではなく獣の食事でも行われているような、ぐるぐるとした悲鳴と獣の息遣いが部屋の中心に入り乱れていた。

 ミシミシと腕が、ベッドが鳴り、筋が、関節が鳴った。そうして、薫は、壮一の髪の中に顔を埋めたまま強く息を吸いこんだ。興奮と恐怖に怯えた香りがする。薫は極限状態に陥った人間の発する香りがたまらなく好きだった。そのまま壮一を落とすぎりぎりまで腕で絞めたまま、下から打ち上げるような破壊的な突きを続け、射精した。そのほんの少し前に、泣くように、壮一のペニスからもたらたらと白い物が噴き出ていて、引き締まった腹を汚していた。気が付くと、熱さではなく、冷たさが、薫の腕をすりすりと優しく撫ぞっていた。それが壮一の掌だと気が付くのに少し時間がかかり、薫はハッとして抱いていた頭から腕を離した。

 壮一の身体からは、未だに震えが伝わってきていた。彼はゆっくりと薫の上で仰向けにしていた身体を起こし、楔を抜くために腰を浮かせ、今度は薫の頭の脇に両の手を突き、上に覆いかぶさってきた。青白い顔から涎を垂らしながら、力のある大きな目が潤んで薫を見下げていた。壮一から滴る汗が一滴、二滴と薫の顔を濡らし、それから涎も糸を引いて垂れる。薫は唾液の振ってくるのをうざったそうにふり払った。

 壮一のまるで死の淵から生還したような青白い顔の中、色素の薄くなった震える唇の隙間から火のように赤々とした舌が見えかくれしていた。その唇が涎を滴らせながら、ゆっくり苦し気に動いて何とか言葉を作った。

「なんだお前……そういう顔、できるのかよ……」
 口の中に出してやったわけでもないのに獣臭い壮一の吐息が薫の鼻先を擽った。精液と言うより血の臭いに近い。その香りがまた薫の脳髄の奥を酔わせるのだった。
「はァ?」
 薫の吐いた息もまた熱っぽく、汗に濡れた壮一の頬を掠めた。
「こういう顔さ……」

 壮一はわざとらしく眉をしかめ唇の端を上げて、歯を見せて、笑った。薫は急な羞恥心に襲われて口元に手をやって頭ごと壮一から目を逸らした。上から疲れ切ってはいるが、快活で豪鬼な笑い声が降ってきてた。そして、激しく脈動する胸をこすり合わせるようにして薫に合わせて、笑い声の振動が心臓同士が直接擦れあうように伝わってくるのだった。今度は壮一が、そっぽを向いたままの薫の頭を優しく抱いた。
 薫は頭を横にしたまま、しばらくの腕で自分の顔を覆い隠したままでいた。



 頸動脈の正確な位置を、教えられる。酸素欠乏の限界の時間を、教えられる。しかしその限界の時間は、正しい限界の時間ではなく、二人の裁量で自在に伸び縮みする。行為の毎に酸素を欠乏させることを壮一は薫に希求する。あれから数回の行為のための逢瀬の後、壮一は「今週末に他大学と興行試合があるから見に来ないか。」と薫を誘った。7月になっていた。1か月も関係が続いたのは薫にとって初めてのことだった。

 最初の見学以降、壮一がプロレス研究会の話を出すことは無かったし、薫が進んで門を叩くことも無かった。薫は興行を観に行くことを、断ることもできた。身体の関係で完結してもいいのだ。

 とはいえ、壮一が強引な勧誘をしてこないことに怪しさを覚えていたが、自分が抱いた肉体が飛翔する姿をもう一度くらい見ても良いかと思ってしまっていた。なるほど、自分の一番良い姿を見せる為に敢えて今までこの男は沈黙を守っていたのだなと薫は直感した。喰えない男だ。
 
 だから、壮一の誘いに乗ることは、彼の思惑にまんまと身を委ねることになるのだが、ここで拒絶して今すぐ関係性をバッタリと断ち切られることにも、悔しいことに微かな恐れを感じていた。壮一であれば「じゃあもう会わない。」とはっきり言うことは無いだろうが、別のやり方で薫から離れるか、興味を失ったふりをするか、そういう穢いやり方をする気がした。逡巡の末、薫は試合を見に行くことを約束した。

 壮一は、やましげな顔で頷く薫を見ながら、ああ良かったと思った。それからいつも、行為の前でも後でも、彼に言いたい言葉が心の中にわだかまり、次会った時にはキチンと真面目にいろいろと話そう、行為以外のことも、知り合いたい、と思うのに、会うと直ぐに肉体関係を結ぶことや新しい性の方法を試すことを優先してしまう。言葉になりかけていたもの全てが、歪んだ性行為の中へと、津波が一度引いて強く岸に波を打つように、性の激しさに還元され霧散無消してしまう。溜めていた分の言葉が、肉の結びつきを強くする。

 薫の、締め技に対する物覚えは早かった。格闘を習ってたとはいえ、指で軽くいい具合に頸動脈を抑えて、窒息させ、なおかつ気持ちよくさせるところまで、彼は簡単に習得した。今まで誰もついてこなかった領域にまで彼なら昇ってこれるに違いないと壮一は感じていた。自分の目に間違いはない。壮一は彼を育てたいと思った。自分の理想とする者に彼を育てたい。

 週末の興行を見に来た薫を、闘いながらも、視線は併せずとも上からずっと眺めていた。そこだけが輝いて見えた。ヒール役の他校の学生を薫と思うと興奮した。

「SMに興味は無いか?」

 興行の後、次に会った時、壮一は「プロレス研究会に入る気は無いか?いつものだけじゃなく、リングの上でもお前と闘ってみたい。だから、お前はヒールをやれよ。」と言うつもりが、呼び出しに答えて隣に座ってきた薫を前にして、欲望を口に出していて自分で笑ってしまった。

 2人は珍しくホテルでもなく、壮一の住む学生寮でもなく、薫の下宿先のアパートでもなく、大学内のベンチに並んで腰かけていた。薫が黙っている間、壮一は鞄に潜ませていたロープをするすると蛇のようにとりだして、手元で弄びながら、どうしてこう、彼の前で剥き出しの欲望を出してしまい、うまく普通の会話ができないのだろうと歯がゆさを覚えた。
 だからこそ、俺は彼を選んだのか?
 薫は馬鹿にしたような目つきで壮一を横目で見た。

「開口一番何を言いだすかと思えば。せっかくこの前の試合の感想を用意して来たのに、そんなのには興味ないみたいだな。で、SMに興味があるかだと?ははは、あるわけねぇだろ……っ、そんな変態くせぇこと、全然興味ないね!!俺は!したいなら、革ハーネスでも付けて腰でもふって、年上の男でも捕まえればァ?」
 壮一は、一体どの口が言ってるんだろう、興味津々の癖によォ……とムキになって否定する薫のことを内心せせら笑いながら続けた。
「無い?……あ、そ。本当に、今のままでいいのか?幸せか?」
 薫は壮一がロープを弄ぶ手を眺めていた。それで、どうにかして欲しいのか?お前は俺を操ろうとするのか?
「今のままでいい……」

 薫は早口にそう言った。口の中が異様に乾き始めていた。
 
 薫の中で一つのブレーキが働いてた。アダルトコンテンツでは比較的暴力性の強い物を好む。SMも変態臭いと否定しながらいくらか観ていた。過激であればあるほど抜け、入っていける。しかし、その度、いつかまたある一線を越えて、自分で自分のことをコントロールできない領域にいってしまうことを畏れていた。

 柔道を始めたのは、精神力の向上、肉体的にも強くありたかったからだが、成長が進むにつれ、主に第二次成長期にかけて、純粋な強さを求める闘いの中に、やましい怪しい欲望が薫の中に顔を見せ始めた。これはいいと思った相手と手を合わせ、戦いが難戦するほど、純粋な勝負以外の不純な欲望がもちあがり、気持ちのいい、清々しい殺意が芽生えた。気持ちのいい殺意。……したい。めちゃくちゃに。

 欲望は誰にもバレてはいないし、バレてはいけない。時折薫は試合後に足早に皆の目につかないようにトイレに向かう癖がついていた。試合の事、その後の暴力の支配する空想世界の中で、手淫にふけり、手の中に出していた。その度トイレの壁に思い切り頭を打ち付けたい衝動に駆られた。あり得ない、こんなことあってはいけない!と思った。この自分が。元々読書は勉学に関する本以外興味が無かったが、性衝動や倒錯、犯罪に関する様々な文献を読み漁った。合意の無い相手に危害を加える可能性のあるサディズムは精神科の治療対象になると知った。そして確立された治療法がないことも理解した。科学的去勢、投薬による性欲減退、それくらいしかない。

 高2の秋、柔道地方決勝で、ついに薫の衝動は一線を越えたのだった。ライバル校、何度か勝ち負けし顔も性格も良く知った相手との手合わせだった。彼と戦えることを愉しみにしていたのと同時に、前日にしっかりと抜いておいた。多少の気休めになる。組合を繰り返す内、彼の癖、彼の急所がさらけ出される瞬間が、ゆっくりとして、動画と言うより、まるでスナップ写真のように、ゆっくりと捉えられるようになっていた。彼の動きが手に取るようにわかる、ゾーンに入り始め、欲望がチラチラと顔を出す。途中から手加減をしていた。

「お前、何で本気で来ないんだ……手を抜いてるだろ……」

 組合の途中彼に耳打ちされた。薫は、冷ややかな目で彼を見たまま黙っていた。
 すべて、俺とお前の為なのだ。

「馬鹿にするなよ……死ぬ気で来い」

 薫の黙っていることに、余計に馬鹿にされたと思ったのか、彼は激昂して、さらに素早い動きで挑みかかってきた。薫は素直に彼の雄姿に感動した。しかし、感動するほどに、まだゆっくりに見える。死ぬ気で来いと言うことは、自分も死んでもいいわけだ、ああ、だからもう手加減しなくても、良い、良いんだ……、と、理性より先に欲望がさっさとそう決めてしまっていた。

 担架が、救急車のサイレンが、人だかりが、大声が、悲鳴が、全ては夢のようだった。彼は死ぬことは無かったが、激しい挫傷のため、腕の神経に若干の麻痺が残り、薫との闘いが実質彼の引退試合となった。誰もが、顧問もOBも後輩も家族も友人も薫を叱らず慰め、審判や運営に責を負わせた。
 
 そういうこともあると、武道にはつきものであり、事故であると。当の彼さえも、薫を一切責めなかった。武闘をやる以上受け身をとれなかった自分に非があり、覚悟の上であったこと、謝罪などいらないと力なく笑い、ありがとうとさえ、言ってのけた。彼の家族まで彼と同じく、まるでふやけていた。全ては、余計に薫を窮地に追いやった。怒鳴りつけられる、面会拒絶、彼の家族や仲間からの報復による暴力を望んでいたのに。

 誰でも良いから、この俺を責めてくれないか。事故ではないんだ、わざと、故意で、意志をもって、俺はやったんだ!叫び出したい、もう、誰かに言ってやろうかと思ったが、言えるわけが無く、言ったところで、彼を傷つけないための嘘を言っているととられるに違いない。薫は、学校でも部活でも、行儀よく、周囲からの信頼が厚く、腕っぷしの強さもあり、体育会系や不良からも一目置かれ、誰からの評価も良かったのである。せめて普段からわざとでも不良生徒としてふるまっておけばよかったとさえ思う。

 はやく死ななければと思った。このまま生きていてもまた誰かを傷つけ、自分だけが罪業を背負っていくならまだいい、もし耐え切れず今回のような犯罪を犯し始めたら?それはもう自分だけの問題にとどまらない。試合を終えるとすぐに、ちょうど受験シーズンに突入した。薫は死の衝動を、自分に鞭打つように勉学に注ぎ込んだ。元々トップクラスの成績だったがどこの大学でも楽々受かるレベルにまでなっても勉強を続けていた。そうしていないと、また誰か手にかけるか、自分を手にかける。

「故意だろ?」
 遠くの方から声がして、薫は追想の中から現実に戻ってきた。見慣れた瞳が直ぐ近くで薫を覗き込んでいた。
「なに?」
「お前の学生時代の柔道の試合の記録を全て見た。」
「……。そう、で?なにが故意、わざとだって?」
「事故で処理されてるが、故意だろ、”あの試合”……。決勝……お前、反則も糞も無く、とにかく、相手を半身不随にしても、殺しても良い、いや、殺したいという気でヤったろ。あれはそういう動きだからな……。……って言ってるんだよ。理解したか?薫君。」

 壮一の声がまた遠くなっていって現実感が無くなっていった。世界が静まり返って、彼と自分だけになったような感覚に陥る。壮一の眼が目の前でゆっくり細まっていき、またいつもの妖しげな炎のような揺らぎを瞳の内側から放出し始めた。

「今の俺ならあの体勢からでも受身がとれた。とれる。そう、俺に対してだったらお前は、何も畏れることは無いんだよ。それから、相手方のことは知らないが、きっとお前のことを周囲の大人は揃いも揃ってお前をかばったんじゃないか。事故だってな。気にするなってな。まったく、鈍感で、なんて馬鹿な奴らなんだろうね大人って……。この世界で俺だけが認めてやる。あれは事故じゃない、お前が望み、したくて、やったことなんだと。お前が、自分の意思で、自分の欲望に正直になって、生きた、その証」

 薫は勢いベンチから立ち上がって壮一に背を向けて走り出していた。背後から呼ぶ声を振り切って。

 壮一はベンチからゆっくりと立ち上がり、一応薫の背に向かって叫んだが、別に追う気はなかった。一陣の風がふいて、汗ばんだ身体を優しく撫でていく。今追ったとて、今の薫はどこまでも逃げるだろうし、余計な刺激を与えることになる。刺激の与えすぎ、これでご破算、もう会うことも無くなってしまうかもしれない。しかし、もし、もう一度彼が自分の前に姿を現したらなら、もう二度と俺の前から逃げることは無いだろう。

 薫に声をかける前から、彼のこの件について調べと当たりをつけていた。やはり思っていた通りだったというわけだ。嗚呼、なんて最高の男なのだろう。壮一は振り絞るようにして、声を出した。

「俺だけがお前を理解するんだ…‥‥っ、それがっ、どれほど心強いことか、孤独なお前にならわかるはずだ。」

 8月も終わりに近づいても、その年の猛暑はおさまらなかった。
 各地で10年来の最高気温を記録し、全国で熱中症による多数の死者が出た。

 壮一はリングの上を舞いながら、あの日から、ただ一つの事を考え続けていた。あれから彼からの連絡はない。リングの上、寝技をかけてくる後輩の視線が外を向き、力が弱められた。熱気に包まれた室内の空気が揺らいでいることに気が付いた。
 壮一は開け放たれた扉の向こうに頭を向けた。そして、緩んだ後輩の腕の中から抜け出て、駆けだしたいのを堪えてゆっくり立ち上がり、扉の側のロープの上へ腕をかけ顎をのせ、彼を見下ろした。

「やぁ……、待ってたよ……、随分遅かったじゃないか……」

 太陽を背負って、肝心の彼の顔がよく見えない。壮一はリングのロープをくぐって彼の方へ静かに降り立ち、ゆっくりと獣を刺激しないように慎重に歩み寄っていった。壮一が近づいていっても彼は目を合わせようともせず、何も言わず立ったままでいて、視線は険しいまま地面の方を見ていた。薫の腕をとり、背後の後輩たちに目で練習を続けるように命じて、壮一は外に出た。
 
 まだ蝉の声が五月蠅く、大学中で叫び声を上げる。自然と汗が流れる。
 双方何も言わないまま、銀杏並木をいつかのように歩き続けた。

「やらない……」

 薫の口から、絞り出したような初めて聞く震えた声が出ていって、最後の方は殆ど聞き取れなかった。

「やらないって、何を。」

 薫の脚が止まり、ようやく正面から壮一を捕えた。壮一はその顔を見て、嗚呼、と熱くため息したいのを堪えて、リングの上に居た時と変わらない微笑を讃え続けた。性行為の後、薫は時々泣き出しそうな顔をすることがあった。行為中常に泣いているのは壮一の方だというのに、終わった後はまるで逆になるのだ。

「お前とはもう、」

 薫のその後の言葉がいつまでたっても出てこない。壮一は助け舟を出す。

「何を?セックスか?いいよ、性交は双方合意があって成り立つことだ。飽きたならそれで。でも、そんなことをわざわざ俺に言うために律義に会いに来たの?1か月以上も空けて……?」

 ふふふ、と壮一は笑いながら薫に腕を絡め、初めて肩を掴んだ時のように強く引き摺り下ろすようにぎゅうと締めあげた。薫は壮一の方を見ないまま、小さな声で言った。

「……危ないことは、もうやらない、やりたくない、」
「ふーん、もう、前みたく絞めてくれないのか?ゆる~くてだっる~くて、つっ……まらない惰性のしょーもねークソみてぇなセックスを続けるのか~?そんなら他に相手なんか」

 薫は勢いよく顔を上げた。怒った顔をして、今度は強い、いつものような調子で壮一に食って掛かった。

「死に……、死に無暗に近づくようなことはやらないと言ってるんだ!いつものだって……、お前の変態性欲につきあってやってもいいが、限度があるだろ……。」
「だ、か、らァ、それなら心配いらないと言ったじゃないか。俺は受身のプロだぜ。いいか、薫。SMは戯れ、プロレスと同じだ。ルールを定めて行う限り、お互いの限界を越えることは無い。寧ろ普通の性行為より危険だと理解している分、情の歯止めを効かせようとお互いの理性がどこかで常に見張っているものさ。」
「……」

 薫は、渋い顔をして黙っていた。壮一は、あと一押しだと思った。もう離さない絶対に。

「そうだ、久しぶりに俺の部屋に来いよ。嫌になったら帰っていい。”危ないこと”はやらないから。」

 訪れた壮一の部屋は1か月前と全く変わりなく整然としていたが、相変わらず本が多い。理工学部の癖に、マゾヒスト的な空想癖の凄さは、この読書量から来るのだろうか。本当は文学部がよかったが、理系の成績の方が優れていたのと潰しが効くので理工学部に進むことにした、といつか彼が言っていた気がした。しかし彼との時間はほとんど行為に取られて、互いの知らないところは多い。
 
 勉強机の上に教科書が開かれたままになって勉強の跡が見える。壮一はベッドの下を漁り始めた。下から本棚に並んでいないタイプの本が出てくる。そして、一緒に奇麗に整えられ結ばれた麻縄の束をばらばらと5つほど取り出した。本の表紙には『緊縛入門・初級編1』『緊縛入門・初級編2』『中級緊縛・寝緊縛から吊まで』『古典緊縛~江戸の緊縛法~』『上級者向け緊縛極意』とあるのが見える。

「なんだそれ。」

 薫はわかっていて敢えて聞いた。壮一は薫を使って己を緊縛をさせたいのだ。薫は頭の奥の方から危険信号が光り始め、凄まじいサイレン音を出すのを聞いた。この1か月間ずっとサイレンが鳴っては鳴りを潜め、また鳴ってを繰り返し、薫を苦しめた。他の人間の上にのしかかりながら、壮一の身体の、その太く青い血管の浮いた首筋のことを考え続けながら腰を振り、察しの良い相手からは「最低!」と平手さえされたのであった。縄をほぐしながら壮一はさわやかな笑顔で二条を振り向き見上げた。

「初級ならば、お前なら本を見ながらでもある程度習得できるし、怪我の心配も無い。俺も自分の脚を使って仕組みを理解できたくらいだ。初級をいくらかやってみて面白いとお前が思ったなら、本格的に外へ習いに行こう。その方が危険も無い。そういうのを仕事にしてる人間、プロに習うべきだ。それならお前の望む安全第一でできるだろ。いつでも俺が受け手としてつきあってやるから。モデルに困ることも無いしな。ふふふ……。」

 本を広げ、壮一は一糸まとわぬ姿になった。薫は脱がないままでいた。

 裸の壮一の肉体の上に緊縛の初歩である後手縛りを、壮一の縛られながらの口頭指導と本を見ながら見よう見真似でなんとか完成させることができた。左右対称に結び目が壮一の汗ばんだ背中の上で突っ張って、食い込んで縫い留め、ぎぎぎ、と、音を鳴らしていた。壮一は目で見てわかる程に、悦んで戯れるように縛られた身体を縄抜けしようとするが、後ろに回された腕を動かす余地は全く無いようで、ベッドの上で転がされたまま、傍らに仁王立ちする薫を見上げた。

「へぇ、な、なんだ…はじめてにしては……よくできてるじゃないか……」

 壮一の声の中に最初の頃の、あの焦燥の混じった声を聞いた時、薫の中で鳴りを潜めていた火花がまた小さく音を立て始めた。壮一は隠すようにして転がってうつ伏せになった、もう既に雄の昂ぶりの気配があるのを感じたのだったが、薫に悟られるのは恥ずかしかった。

「SMなんて変態臭いとか言ってたくせして、本当はもう他の男を縛りまくってたんじゃないのか?」

 壮一が自分の焦燥を掻き消すようにしかし興奮を隠せず顔を紅くした。それを薫は冷めた目で眺めていたが、ふいに視線を逸らした。

「帰る。」
「えっ」

 壮一の元に戻ってきた瞳の中に、冷めた感じの他に、嗜虐的なゆらぎが漂い始めているのを壮一は見た。
 薫の口元に、壮一に再会して初めて微かな微笑みが立ち昇っていた。

「”嫌になったら帰っていい”、さっき、てめぇが自分の口で俺に対して偉そうに言い腐ったんだろう。忘れたか?俺はお前のその、人を見下した態度がつくづく嫌になったね。ああ、俺はお前の部屋の鍵を貰ってないからな、閉めないで帰るぜ。そうだ……、ついでだからよ、後輩君たちに声かけておいてやろうか、部長が呼んでましたよってよォ。急に部長にいなくなられてアイツらも困ってるだろうしなァ!」

 薫は壮一に背を向けてさっさとドアの方に向かい「待」と言う声を聞きながら扉を勢いよく閉めた。
 ドアの向こうから小さく官能的な悲鳴が聞こえていた。足音を大きく、廊下を歩き去っていく音を立ててから忍び足で再びドアの方に戻り耳をそばだてるとさっきよりさらに鳴いていた。しばらく声を聞いてから、薫はまた足音を忍ばせて、部屋の前から去った。

 1時間かそこら、辺りを散歩してから壮一の部屋に戻ると、彼は勢いよく顔を上げ、扉を開けたのが薫だとわかると安堵と羞恥を顔に出して、すぐさま無言のままベッドに顔を埋め、芋虫のように身体を軽くくゆらせた。縄がぎしぎしと鳴っていた。部屋からさっきまで無かった臭いがしていた。

「おい、なんだ?この部屋は。随分精液くせぇじゃねぇか。あ?」
「……」
「なぁ……まさかこんなもんで勝手に射精でもしたんじゃねぇだろうな、見せてみろよ。」

 壮一がベッドの上で何かを隠すように動こうとしないので、薫は「聞こえなかったか?あともう一時間ほど散歩してきてやってもいいんだぜ先輩……」と気味の悪い猫なで声を出し、壮一は答える代わりに震える身体を裏返すようにして転がり、腹を二条の前に晒した。

 ベッドが湿って、勃起したままのペニスの先端が、壮一の羞恥する瞼の震えに合わせるようにひくついていた。薫が黙ったままでいると、きつく結ばれたままであった壮一の唇が、ゆっくりと弛緩し始めて、そこから、ハァハァハァハァと、息が次から次へと我慢していたものが溢れるように漏れ出ては、空気に霧散し、淫臭に混ざりあい、激しくなっていく。薫が側に屈みこむと呼吸が一層激しくなって、縄が鳴り、腰が、媚びるように揺れて、雄がぼろんぼろんと玩具のように跳ねていた。

 薫は彼に一切触れようとせず、しばらく壮一の痴態を見ていたが、顔を覗き込み、髪を掴んで顔を近づけた。
 ぁぁ……と蒸れた蜜のような甘い呼吸が薫の頬にかかり、髪を揺らした。その瞬間反射的に壮一の顔面を殴っていた。壮一の頭が薫と反対の方に向いて、手の中でがくがく震え、数呼吸の後、潤んだ瞳を持って戻ってきた。探る様な上目遣いの下瞼が、引くひくと動いて泣いているのか笑っているのか両方なのか、わからなかった。

「おい……変態さんよ……。臭ぇ息を俺に吹きかけるんじゃねぇよ……俺に、てめぇの超ド級の変態菌を移す気か?勘弁してくれよナ……。それにしても、気に入らねぇ態度だなァ……。そうやって、腰を揺らして媚びれば、興奮した俺が上にのっかって勝手に犯してくれるとでも思ってんのかよ?え?俺はお前のディルドじゃねぇんだぞ。どうして俺がてめぇみてぇなド変態に興奮すんだよ。ん?どういうつもりか言ってみな。」

 唾の絡んだ乱れた呼吸が、壮一の喉から掠れ出て、それからごくり、と唾を飲み込む音がし、部屋はしんとした。薫はもう一度壮一の同じ場所を同じように殴って、のけ反った顔が返ってくるのを待った。さっきよりさらに紅潮し、視線の定まらない眼が返ってきた。

「しゃべれない……?ああ、そう。じゃあもうしゃべんなくていいよ。勝手にもう口を聞くなよ。言葉はもちろん、きったねぇ喘ぎ声をほんの少しでも出したら、そうだな……殺そう。そう、殺すんだよ……ッ!!あの時やれなかったことをお前にやる。お前が俺を”認めて”くれるってことは、そうされてもいいってことだろ?壮一……。」

 薫は自身のベルトをするりと抜き取って、二三しならせるように振ってから床に投げ捨て、パンツまで降して性器を、壮一の顔面の目の前に突き出した。壮一の舌が、犬のようにゆっくりと唇の隙間から出てくるの見るやいなや、薫は勢い立ち上がって壮一の腹部を渾身の力で蹴り飛ばし、しなやかな肉に足先が突き刺さる感覚に薫の頭はぐわーん…‥と痺れた。衝撃でベッドの上を転がった壮一の身体は壁に勢いよくぶつかって、大きな音を立てた。が、声は出ない。壁の方を向いたまま、縛られた背面を薫の方に向けた身体が震えていたが、小さな呼吸音の他、何も聞こえない。薫は感心したように壮一を見下ろした。

「ほぉ、ちっとは俺の言うこと聞けるじゃねぇか。ただのえらそ馬鹿じゃないってわけだ。お前が俺が良いとも何も言ってないのに勝手に穢い口で俺の一物に触れようとしたことは許せねぇが、今の蹴りで少しの声も出さなかったことだけは褒めてやるよ。流石だな。これでも結構本気だったんだぜ、俺。おい、こっち向けよ。這って戻ってこい。すぐ。」

 壮一がベッドの上の身体を這わせ、戻ってきたところにまた、薫は壮一の鼻先に自身のペニスを押し付け、彼の体温がみるみる上がっていくのペニスで感じた。壮一の口は閉じられたままの代わりに、鼻からの呼吸がすんすんと薫を擽った。マテと指示されている犬のように、壮一は上目づかって薫を見たり、目の前の雄を見上げたりしていた。

「ふーん、お前は誰にでもすぐにそうやって媚びた目つきをするんだな。冷めるな。」

 壮一は真っ赤になった首を左右に振って懇願するように目を細め薫を見上げ、口を開きかけ命令を思い出して直ぐに閉じた。

「ふーん。違うって?へぇ~、俺の言うことを、お前は否定するんだ。お前が俺を否定できるんだ?認めると言ったくせに!」

 壮一は絶望と快楽の顔を浮かべ、薫の前に深く項垂れた。その頭を薫は上から踏みつけて、味わい、そのまま自らの手で自らのペニスをしごき始めた。ペニスを勢いよくしごく振動が、薫の身体、脚越しに壮一の頭の上にぎしぎしと伝わってきて、ギシギシと縄を食い込ませた。足の裏でしか触れられていないのに、縄が薫を全身に感じさせる。
 
 壮一の身体の下では、触れられないし、触れられもしない雄が一層膨らんでいた。
 生暖かい物が、縛られ擦れ汗ばんだ背中の上によく染みた。



 血の臭い。呼吸する度鼻腔の粘膜から喉をつたって身体の中に絡みつくように取り込まれていく血の臭い、自分ではない他人の血の臭い。杯の血が目の前に浮かび、縁に口をつけたいと思う。
 薫は一度は収まったやましい興奮が再び体内に燻り始めるのを身体の内に感じて顔を覆った。覆った指の隙間からまだ血の臭いがする。

「そこに」

 くぐもった声と共に、目の前に腕がするりと伸び、本棚の下段の方を指した。

「そこに、救急箱があるから……、とってくれないか。」

 薫はようやく声の主の方を見やった。壮一も顔を抑えていたが、薫とは違って血液のこぼれ出るのを手で受け止めている。左手で顔半分と鼻の辺りを抑えている。その間にも指の間から血が噴きこぼれて腕をに赤い筋がつたっていた。壮一の口調や息遣いは行為の時からは完全に覚めていた。普段話すのと変わらず、片方の瞳は薫よりもはるかに冷静に薫を見ていた。薫は急ぎ壮一に指示された場所から救急箱を探り出した。本棚には、海外文学から国文学までの本がみっしりとつまって幾らかは埃をかぶっていた。救急箱に埃はなく、何度も使用された形跡がある。

 救急箱を手に振り返って、また心臓がまた奇妙な揺れ方をした。手を外した顔半分、血塗れて左目の腫れあがって殆ど開いていない壮一が、薫を見上げて、求めるように手を伸ばしていたからだった。薫でなく救急箱を求めているとわかっていても、薫は自分の拳がまたそこを打ちたいと思うのを止め、握りしめすぎて震える手で彼の前に救急箱を置いた。
 彼はテーブルの上に置き鏡を開いた。まるでこれから化粧でもするような優雅な仕草だった。まず目の上の腫れあがった部分に小さな剃刀を当て血を抜いた。鬱血して閉じていた瞳が開き始める。充血した瞳が開かれ、睫毛に血をのせながら、血が零れでるのを面倒くさそうにガーゼで留めている。それから上を向いて脱脂綿で鼻を抑え血を止めようとするが、脱脂綿はすぐに真っ赤に染まる。

「切れやすいんだ、俺。」

 薫は、壮一が何を言っているのか理解するのに時間を要した。ようやく、”鼻の中が切れやすい”という意味だとわかった。簡単なことなのに、部屋に充満する壮一の生々しい芳香、精と濃い血の臭いに、頭が回らない。くらくらする。薫は自分の呼吸がまた上がってくるのを感じた。血を見ていたくないのに、床に捨て置かれた血まみれの脱脂綿から目が離せないまま、喉の奥で喘いだ。

 壮一は鼻を抑えながら、痛むのかまだ軽く肩で息をしているが、冷静な紅い瞳で薫を見て、心配そうな顔をする。逆のはずだと薫は思う。しかし今壮一に触れたら……。

「少し、外に出て風にでもあたってきたらいい。今日は気持ちがいい日和だ。それに、こんなの慣れたものだよ、試合の後はこうなることもよくある。だから救急箱を常備してあるんだ。部屋も換気しておくよ。」

 壮一の言葉は薫にとって殆ど命令に近かった。そして、救いでもあった。

 学生寮の廊下はひんやりとして誰もいない。部屋の中が熱気に満ちすぎていたのだ。隣の部屋のドアがゆっくりと気味の悪い音を立てながら開いた。顔より先に肩より長い黒髪がドアから現れ、女?と思うと、続いて男が顔をのぞかせた。煙草の甘い煙がふんわりと流れ出て来た。彼の手から煙が立ち上っている。初めて見る顔ではない。大きくはない一学生寮の中の壮一の部屋を訪れる際に数度見たことがある顔だった。

「さっき、なんだか凄い音がしたけど。」

 男の声は、妙に耳に甘ったるかった。彼は廊下に立ちすくんだままの薫を見て、ドアから全身を出し、後ろ手にドアを閉めた。ぎぃとまた気味の悪い軋んだ音がした。壮一の部屋のドアはそんな音を立てない。
 
 男は細身で飯を食っていないのか不眠なのか誰が見ても不健康な悪く言えば薬物中毒者のような顔つきをしていた。しかし、男にしては長い、肩につくほどの髪が水を浴びた黒烏のようにつやつやとしており全体的にどこか人工的に作られた人形のような印象だ。年は、顔の不健康さもあるのか、薫や壮一より幾らか上に見えた。院生かもしれない。男は今しがた閉めたドアにもたれかかり、薫の全身を舐めるように眺め、小さく鼻を鳴らし、目を細めた。

「……。血の臭いがするね。」

 男は不味そうな顔して手に持っていた煙草を強く一吸いすると、足元に落として踏み消した。学生寮はそもそも禁煙であり、廊下に吸い殻を捨てるなど、もってのほかである。薫はつぶれた吸い殻から、再び男に目をやった。

「ここ禁煙じゃないですか。」

 男は意外そうな表情をしてから微笑んで「はぁ……まじめだねぇ……君ぃ……」と感嘆として、自分の右袖の辺りをさするような仕草を何度も繰り返した。最初意味が分からなかったが、薫は、ふと自分の腕を見て、急いで腕を隠すようにしてこすった。微かだが、壮一の血が腕に飛び散って、斑点になって紅くこびりついていたのだ。薫は自分の全身を細かく確認したが、血がついていたのはそこだけだった。

「どうやら、君の怪我ではなさそうだ。」
 男はまた、粘ついたような甘い声を出した。
「ってことは……、まあ野暮なことは聞かないでおこうかな。別に殺したってわけじゃないんだろ。殺したんならこんなところでぼーっとつっ立って俺とこんな風に冷静に会話する余裕も無いだろうからさ。……君が、相当のサイコパスか何かじゃなきゃあね。ああ、一回でもいいから早く本当のサイコパスって奴と話をしてみたいもんだな。それから……、いや、その話は良い。まあ、だから、もし君がそうだったらば、と思うと、少し胸が高鳴るよ、でも現実はそうではないんだろう。なんともつまらないね。」
「……、……。」
「しかし、彼、間宮君は、相当変わってるだろ。」

 この数分接しただけでも、貴方だって相当に変ですよ、と薫は言いたかったが、「そうですかね。」と曖昧な返答をした。こうして関係の無い他人と話している内に自分の中で昂っていたうねる様な波が少しずつ引いていくのを感じられた。男は苦い物でも食べたような顔をした。

「こんなところでプロレスなんて野蛮をやってる奴が変わってないわけが無いだろう。」
「……」
「ああ、もしかして君も新入りだったりしたかな。俺はもっと、ずぅっと別のことを想像していたけどね……」

 随分回りくどい言い方だった。返す言葉もなく黙っていた。男は退屈したのか、興味を失った目をして、欠伸をして再びドアに手をかけた。部屋に戻りかけ、彼はもう一度薫を振り返って片方の唇の端を上げた。

「はしゃぐのもいいけど、ほどほどにしてくれよな。明日からの医科の実習の準備で立て込んでるんだよ。……。ただ、実を言えばね、彼の部屋の隣になって一番長く続いてるのは、俺なんだよ。彼は過去に大学の管理や他の寮生から一度ここから追い出されかけていたくらいの問題児だからな。そうして一番隅の日当たりも良くない部屋に追いやられて。で、隣に誰も入りたがらない所に俺が居れてもらったわけさ。」

 扉は今度は音もなく閉まった。奇妙な男だ。
 廊下は、死んだように、しんとしていた。

 大学の構内をあてなく彷徨っていると直ぐに時間が立った。一時間後に戻ると部屋は爽やかな空気に満ちて、先ほどまでの惨劇の痕跡はすっかりなくなっていた。大きく開かれた窓から爽やかな風が吹き込んで緑色のカーテンを揺らしていた。彼の顔の傷跡、まだ薄っすらと残る縄痕も、ただ自然にそこにあるだけで、薫を刺激しないのが不思議だ。彼は一人用のソファに腰掛け本を読んでいた。彼は薫が入ってきてもしばらくそのままでいて、幾ページか捲ってから本を傍らに置いて、薫を振り返る。

「ごめんごめん、ちょうどいいところだったからさ。集中すると直ぐこうなんだ。駄目だね俺。」
「何を読んでたんだ?」
 壮一は文庫本を手に取って表紙の方を見せた。紅い表紙に金文字が踊り『痴人の愛』とあった。
「谷崎だよ。いいよな。」
「谷崎?」
「……呆れた。谷崎潤一郎も知らないで文系なの?」
「名前だけなら。」

 壮一は文庫本を放りなげ、ため息をつきながら立ち上がった。それから本棚の前を行ったり来たりしたかと思えば薄い文庫本一冊投げてよこした。同じく谷崎の本らしかった。本好きの癖に本の扱い方が雑なのはいかがなものかと薫は思った。

「それ、持って帰れよ。別に帰してくれなくても良い。読みたくなったら買うから。ま、暇つぶしくらいにはなる。ところで薫、プロレス研に興味は出てきたか?」

 大学構内を歩き回っている間、丁度そのことを考えていたのだった。

「どうだ、俺と、リングの上でもヤッてみたくなったか?衆人環視の中でさ……」
 壮一の瞳に、真面目と妖艶な部分が同居して輝いていた。

 翌日、壮一は薫を伴ってプロレス研の練習場に来ていた。薫は初日に見せた生意気な態度はまるで見せない。体育会系のしきたりに沿って頭を下げ、彼らに加わる。
 浅葱は壮一の顔に昨日まで無かった傷の痕を見た。絶対に練習中についたものではない。この目で見ている。昨日出ていった時は奇麗な顔をしていたのを見たのは浅葱一人ではないはずだ。顔が切れている。誰もが傷について触れることをはばかり、壮一に聞くことができないでいたが、その中で浅葱は、やったのは薫だろうとほぼ確信していた。
 薫は気味の悪い程礼儀正しい振舞をして、浅葱にも頭を下げたが、その仕草一つ一つが浅葱の気に障った。浅葱だけでなく、他の幾らかの部員も同じ考えを持ち、薫に反感を覚えたが、壮一が初めて直接連れてきた人間を追い出すことはできない。
 反対に、薫の経歴、身体能力や華のある姿に薫を歓迎する面々も多かったのも事実である。
 レスリングの初心者とは思えないほどに、柔道経験者の薫の飲み込みは早く、壮一の顔の傷が治る頃には、前座、中座くらいであれば楽々と舞台に立って勤められる程度の技量を身に着けていった。

 壮一は、薫が真摯に自分や皆と取り組み、自分の指導を懇切丁寧に受ける中で、時々彼の瞳の中に抑え込まれている獣性を垣間見たのだった。壮一のその熱っぽい異様な視線を、昼間の薫は意識の上に感じていなかった。只管、強く、目の前のことを必死に覚えようとしていた。それから、プロレスがあくまで、物語に沿って行われる戯曲に近いものであることが、薫に上手くブレーキを効かせるのが良かったのだ。
 
 薫よりも、第三者である浅葱の方が、壮一の異常な精神状態にいち早く気が付いていた。壮一が身体を休めている時の、薫を見る瞳は明らかに常軌を逸していた。

 浅葱は壮一のことが一後輩として心配だった。しかし彼の異様に熱っぽい気迫に声をかけるのは憚られ、結局、薫と取り組む際にその憂さを晴らしてやろうとするのだが、薫の技量は浅葱の数か月の努力など一瞬で飛び越えて打ちのめし、最後の最後に小さく、間近で対峙した者にしかわからない程度に笑うのだ。それから真面目腐った顔に戻り「ありがとうございました。」と言う。浅葱は一層のこと、もうここに来ない方が良いのかもしれないと思った。しかし、急にそんなことをすれば壮一は「なぜ?」「どうして?」と徹底して浅葱のことを深く探ろうとするだろう。それで二条薫の件で辞めるということが彼にバレてしまうのが一番厭だった。

 薫、薫……。薫の姿を見ていると、壮一の肉体は、前以上に伸び伸びと機敏に流れるように自由に動き、宙を舞い見ている者達を唸らせた。練習場は、一部のドアを常に開け放っており、部員以外にも暇つぶしに物見見物をしに来る学生が時折いた。部としても許していた。意外にも女学生の立ち見が多いのは、壮一のことがあったが、前以上に物見見物、入部希望者が増えていた。
 
 壮一は壁にもたれながら闘っている薫を見ていた。嗚呼、気持ちがいいよ。お前がそうして、懇切丁寧に、「偽りの姿」で俺や俺達と戯れている間に、お前の獣性は欲望の底の、血に飢えた泥沼からすくすくと育っていくんだ。お前も感じているだろう、意識の上では感じていなくても、肉体は感じているはずだ。お前の自由を求める心臓の跳ねる躍る音が今にもこの耳に聞こえてきそうだ。でも、前のように畏れることは無いんだ。なにしろ、俺が常にお前の側に居るのだからね。夜を迎えれば、全てを解放できるのだから。そうだろう、薫。

 壮一の思う通り、昼の真摯な態度の薫と夜も遅まった刻の薫は違った。まるで鎖を解き放たれた獣だった。
 ベッドの上や時に床で伸びている壮一の背中に時々、流れてくるものがあった。

 プロレスの習熟と同時に、薫は縄の技量も上げていった。”安全な暴力”は薫を魅了した。壮一と2人で連れ立って繁華街のうらびれたビルに居を構えるSMバー『溺涙できるい』で定期的に開催される縄の講習会に通っていた。縄の世界にも武闘と似て流派がある。『溺涙』の壮年のマスターはSMバーの経営者でありながら、業界ではよく名の知れた縄師「花房双月」の名で活躍し、花房流緊縛を謳っていた。時に海外で"JAPANESE KINBAKU"文化を披露する程の優れた腕の持ち主であった。

 花房流緊縛には免許皆伝制が用いられる。段位には一段から五段までが設けられた。四段までいけば、縄の講師として、技術を乞うものに指導をすることも許可される。練習のために縛る相手に困らず、時間もあり、一度始めたことは最後までやり遂げる精神の強い薫は、四段まで駆け上がり、双月から「プロになったらどう?」と初めは冗談半分、追々本気で薫に声をかけられるようにまでなった。しかし、薫にとっては縛る相手は、ただ一人でよく、縄も自分とただ一人の為に使われるもので良かったのだった。

 ある夜、バーでの縛りの練習を終え、縄を片付けている薫に、カウンターの中から双月が声をかけた。

「兼業でやってる奴も多いんだから考えておけよ。趣味で稼げるんだからいいもんだ。お前を海外のイベントに助手として連れて行ったっていい。それに、他人に教えるのも技量の上達に繋がるぞ。」

 薫は、曖昧な返事をして答えを濁したが、答えはNO一択だった。大学に入学した当初の予定通り、国家官僚になる気でいる意志を変えてはいなかったからだ。特に法務省を狙って早くも対策を立て、時間の隙間を縫うように勉強も始めていた。そして、公務員に副業は許されない。その上、緊縛師などもっての他だった。一方、壮一の部屋の勉強机からは、少しずつ勉学に関するものが消えていっていることに、薫は気が付かないふりをしていた。

 その夜は週末ということもあってか、店は繁盛しており、カウンターもソファ席も殆ど人で埋まっていた。緊縛を受け終えた壮一は、薫から離れ、縛りを受け火照った身体を、バーカウンターの一番奥から二番目の席に腰掛けて冷ましていた。冷房がよく当たって気持ちがいい席だった。目を閉じればまだ余韻が残り、昂る。一週間これで捨て置かれても記憶だけで、イク、良い気持ちになる。そんなことはさせないが。

 カウンターの一番奥の席には、誰かが来るのを待ち受けているように黒いシルクのハンカチが丁寧に畳んでおかれていた。だから壮一は自然とそこに座るのは避けたのだった。微かに開かれた窓から月光が差し込んで、黒いシルク地を妖し気に照らしていた。

 片づけを終えた薫が壮一の側に戻ろうとカウンターの方へ向かうと、壮一の左隣の一番奥の席に男が座っていた。パナマ帽を斜めに被って身ぎれいなスーツを着こなした男が、紫煙を漂わせながら双月と親し気に話をしていた。
 こうして背後から見ても男は、全体的に洒落ており、月光に充てられてさりげなく輝くような高価な仕立てのスーツを着こなして、薫でも判断できるようなブランド物の時計をし、靴は汚れの一つもなく、スツールの下でさえ不思議と輝いて見えるのだった。薫と壮一は二人とも体育会系の大学生らしい服装、壮一はタンクトップにハーフパンツ、薫はTシャツに黒地のジャージを身に着けているだけだった。縛りを習うのに余計な装飾は邪魔なのだ。

 一目見て上流社会の人間とわかるような人間が、このような爛れたバーにやってくること自体意外で、薫の眼にその男は何故かひと際目立ってみえた。と、同時にこのバーの趣旨を思い起こす。このバーは普通のバーとは意匠が異なる。SMを愛好する者や密やかな欲望をこっそりと曝け出したい人間が客として訪れるのだ。服装、雰囲気を背後から見ただけでどちらかと言えば彼がサディズムの気があってここに居るはずだと薫には直観的に感じられた。薫は男の反対側に壮一を挟むような形で、どすんと跨るように座った。壮一のだぶついたタンクトップの隙間から蒸れた脇と、すっかり膨れた乳首が見えていた。

「ああ、彼がそうですよ。」

 双月が軽快な口調で壮一を挟んで薫のことを男に紹介した。

 男は壮一越しに屈むようにして、薫の方を見た。男の目元は帽子で影になってよく見えない。闇の向こうから薫の方に目を向けていた。それだけで一方的に見られているような不愉快な、嫌な感じがするのだが、目を離すことができない。彼は、数秒の間をおいて、というか、薫が目を離さないのを確認してから、ゆっくりと帽子をとって弄ぶようにしてカウンターの上に置いた。服装から想像していたよりもいささか若いくっきりした顔が現われ、彼は軽く伸びをして、緩やかにうねった髪を後ろになでつけて、彼は手をシルクのハンカチで丁寧に拭った。爪が丁寧に手入れされてピカピカと光っていた。彼は再び薫に向き直ったかと思うと、作ったような奇麗な笑みを、月明かりの中、薫ただ一人に向けて浮かべた。
 
 微笑みの奥底には、何もなかった。何もない微笑み。動物のそれに似ている。
 薫はそれをどこかで見たことがある。鼓動が上昇し始め、さりげなくこめかみのあたりを抑えた。
 どこで見たか、鼓動が速くなる。苦しい。それはやましいことをした後偶然目にした、鏡の中の自分の瞳だった。
 男は吸いさしになっていた灰皿の上の煙草を手に取って吸い、息を吐いた。

「へぇー……」

 壮一の周囲に、ネオンに照らされて青くなった男の吐いた紫煙がまとわりつくように舞った。壮一はそこに存在していないように、物か何かのように、何も気にしてない様子で紅潮した顔のまま、酒の入ったグラスをぼーっと見ているのだった。男は双月を横目で見て、もう一度薫を見ながら言った。

「じゃあ、もう事後ってわけか。ああ、おしいことしたなぁ。仕事が思ったより押したんだよ。残念だよ。」

 薫は男の耳の奥を揺らされるような低い声、それからやはりその作り笑みに、著しく不愉快な感じを覚えた。不愉快、と、表面的に思うことにしたが、心の奥に動物本能にもとづいた畏れのような黒い何かが、薫の中に生まれて初めて沸き燻って、震えていた。
 畏れていると思いたくなかった。どのような種類の人間であれ、今まで、初見の相手にこのような恐れを覚えたことは無かった。身体的特徴を見ても年齢を見ても肉体的に圧倒的に有利と思える。しかし武道は体格によるものではない、細身でこそ極められる武道というものもある。しかし、彼がそのような種類の人間とも思えない。

 薫が目を合わせ続けるのが辛いと思った時、心を読んだように男は視線を双月の方へふいと向けたのだった。

「彼にも同じのをやってよ。」

 男がグラスを揺らすと氷が音を立て、その時ようやく、薫の中の張り詰めていた神経の線が緩んだ。
 黄金色の酒、アルコールが渦巻いている。
 目の前に用意されたグラスに触れるが、口に持っていく気が全く起きない。
 彼と同じものを口に含んではいけない気がした。

 横で壮一は、まだ余韻に浸っているのか、縛れらた後の酒が効いたのか、緊迫した薫をよそにのんびりとした調子で、横の異様な妖しい男の方に警戒もせず、目もくれず、カウンターにもたれかかり、薫の方を潤んだ上目遣いで眺めていた。薫は「この馬鹿が」と罵りたい気持ちを抑えて、睨み下げたが、壮一の瞳には、この後もゆっくり楽しもうよ、という、いつもの視線しか漂っておらず警戒心の欠片も感じられない。

 壮一の周りをまたあの男の紫煙が渦巻いて侵食し始め、薫は直観的に壮一と席を変わったほうがいい、と席を立ちかけたが、双月が口を開いたので、その気を逸してしまった。

「実は彼はこの店の共同出資者でな。共同っていっても、9割方初期投資分をだしてくれたようなものなんだ。本当なら彼が経営者の名を刻むべきなんだが……それで返さなくていいっていうんだから。」

「こっちに仕事が無ければわざわざ来ないからな。俺は貴方の美しい技量を買ってるんだからいいんだよ。金なんか好きなものに、本当に欲しい物を得る時に使えれば、すっかり無くなったっていいのさ。それに俺の名前で登録するといろいろと問題があるだろ、ふふふ……」

 その後、男は薫の方に目をやることもなくしばらく双月と会話を楽しんでいた。薫は薫の気など知らない壮一が、健気に話しかけてくるのに上の空、生返事で答えながら、男のあの病んだ目つきを忘れられなかった。グラスの中の酒は一滴も減らないままだった。

「そろそろ。この後も実は仕事があるんだ。最近は面倒なことが多い。」

 男は帽子をかぶりなおして立ちあがり、双月が頭を下げた。壮一の背後、そして薫の背後を通り抜けた。

「また会えると良いね、二条薫君。」

 芯からぞっとして、背後を見やったが彼の姿はもう無かった。双月にさっきの男に、どこまで自分たちのことを彼に喋ったのかと普段礼儀正しい薫が、”まるでヤクザさながらに”、額に青筋を立て、食ってかかかるように言ったので、周囲の客が何事かと顔を上げたが、壮一は眠そうな目をしたまま「なんだ?」と不審げにしかし若干頬を紅く染めて薫を見やり、双月は双月でまた不審げな顔をして、最近良い弟子が入って男同士でやっていることしか話していない、というのだった。

 薫はここで緊縛を習うのをよそうかと思ったが双月によれば男が訪れるのは珍しいことであり、どうしても気になるというのなら、彼が来る日を事前に伝えるというので、そのまま店に通うことを承諾した。それでしばらくの間は例の男に会わなくて済んだのである。

 季節は秋に移り変わっていった。11月の頭には大学祭、駒出祭を控えて、プロレス研でもタイトルマッチが組まれる。プロレス研一番の見せ場のイベントである。壮一が考えたプログラムでは、二戦あるタイトルマッチの内一つが、壮一と薫で組まれていた。通例では引退を控えた3年同士かよくて2年とやるものだが、誰も思うことは在れ、この試合について文句を言うものは皆無だった。薫の実力は既に壮一に追いつきつつあり、彼の戦闘スタイルは誰とやっても映えたが、やはり壮一と組むのが一番良かった。2対2でペアとして組んでも、1対1で戦っても映えた。

 大学祭に向け、練習は続いていた。
「まだだ、まだ動くなよ……っ、ここが見せ場になるんだから。そうだなァ、あと30秒くらいは。」
 薫の身体の上に背後から壮一が覆いかぶさり締め付けていた。
「……」
 薫は覆いかぶさられながら、太ももの側面に壮一の雄、欲望をもった肉の塊が熱く脈打って押し当てられているのを感じていた。薄いスパッツ越しに明らかに勃起しているのを、他の誰にも気が付かせないように押し当て隠している。壮一は、そんなことを一切気が付かれないような爽やかな大きな声を辺りに響かせていた。壮一の言った通り彼の手は30秒で離れて、さっきまでの予兆はすっかり消え失せていた。

 リングを降り、ロッカールームに引っ込むと案の定後ろから壮一がついてきている気配があった。自分のロッカーの前まで行ってから勢い彼を振り向いた。険しい顔の薫と対称的にひょうひょうとした顔をしている壮一。

「さっきのは一体何のつもりだ。」と壮一に詰め寄るが「何の事?」と彼はそ知らぬふりをした。

 薫の腕が、無意識に後ろに引き下げられ、拳が壮一の腹部にめり込むまでに時間はかからなかった。ロッカーに背を叩きつけられ、壮一は腹部を抑えながら俯いて、よろめきながら立て直し、それから薫を煽情的に上目づかって紅い唇を淫靡に歪ませた。薫は乗らない。

「気に喰わねぇ……少しくらいわきまえろよ、ここがどこかわかってんのか。」

 薫がのってこないのがわかると、壮一は、す、と背筋をいつものように伸ばし後輩に命令する時のような冷めた目をして、薫を真正面から見た。というより、まるで見下すような目をした。

「わきまえる?わきまえてるさ。俺だって空気を読んだんだよ、だから本来20秒のところを30秒にして、抑えたんじゃないか……はは、そんなこともわからないで……、君って実は、相当な馬鹿なんじゃないのかァ……?」
「なに?お前今何て言った。」
「馬鹿だって言ったんだよ、馬、鹿。聞、こ、え、た、か~?頭だけじゃなくて耳まで悪いとはね!驚きだ。大体あんなこと!お前に対してだけでなく、よくあることなのさ。大げさなんだよ……っ、いちいち。」
「へぇ、そいつは知らなかった、いつ、だれに対して?」
「覚えてる訳ないね。興奮するとそうなんだ、お前だってそうのくせして。」
 痴話喧嘩は延々と続いた。浅葱は自分のロッカーに向かう脚を止め、引き返した。ロッカールームでの2人の痴話喧嘩は少なくとも週に一度は起こることであり、皆が慣れ始めていた。

 試合まで一か月、薫は壮一に本試合まで夜のプレイを控えることを宣言した。
 その方が練習にも試合自体に集中ができ、身が入り、良い試合になるというのだ。壮一は薫の言うことに一理あると思ってしばらく黙っていたが、自分が我慢できるか不安だった。

「オナ禁みたいなもんだ。解禁日は相当気持ちがいいはずだぜ。互いにな。」

 薫は壮一の縛られしなやかな汗浮いた身体を見ていた。

「できるよな?我慢。俺の言いつけなんだから。それとも……無理かな?お前には。」
「……できる、ッ、できるとも。」
 
 壮一はベッドに頭をこすりつけ、左の足の指をばらばらと動かしながら、喘ぐように言った。涎でびしょびしょになった場所に、また涎が垂れていった。薫の低い声が遥上から降ってきて、尻をぴしりと叩いた。
「ぐ……ぅ……っ」
 収まりかけていた壮一の雄が、ビクンと跳ねた。
「本当かなぁ~?」
 もう一度、二度と尻を叩かれ続けている内、壮一の頭の中の理性がまた、溶けていく。
「あ゛っ……ぁあ…っ、ほんとだ、っ、ほんとのことだ…‥」
 しかし、壮一には、ここ数年の間、一か月間、誰とも寝なかったという月は存在しなかった。長く空いたとしても3日だった。彼がかつて寮を追い出されかけたのにも、ここに原因がある。

 壮一の身体は横向きに、半分宙に浮きあがっていた。右足を折られた形で縄で縛られ、右足から伸びた縄がホテルの天井に設置された横張に伸び吊られているのだ。壮一の身体は横を向いたまま、上半身はベッドの上に寝ているが、下半身を宙に浮かせ、藻掻いて這って移動できるのはせいぜい10センチかそこらで、力を抜けばずるずると、直ぐに元の位置にもどされてしまう。

 折りたたまれた片脚が吊られている構造上、脚が開かされて秘所は丸見えで、薫が壮一の足元に膝をつけば、ちょうどいい位置に、壮一の秘所は調整された高さにされていた。しかし今、というより初めからそこには薫の一物ではなく、細身のバイブが突き刺さり、めりこんだまま緩い振動が、長い間ゆるゆると与えられ続けていた。くすぐったいような刺激に見悶えると縄が軋み肉が引きつって、そして薫に縛られ一部始終見られているという状況に、壮一は雑魚バイブと思った細い棒にさえ感じてしまうのだった。
 薫がさっき叩いたので手形になった尻肉の間で、蜜壺が引き締まり、ぐぅぅとバイブを咥え込んで、壮一一人が勝手に喘いでいた。薫はその横に座ると、片手で本を開きながらバイブを前後運動させ始めた。

「あ゛あ゛…ん…っっ、うっ……うう゛ぅ……」
「こんな極細じゃ感じるわけないって言ってなかったか?」

 薫は前後運動を止め、指一本でバイブを壮一の腹側一点に向かって傾け押し当てた。縄が大きく軋む音を立て言葉にならない官能の啼き声と吐息が壮一の口から流れ出ていった。身体が跳ねようが、射精しようが、薫は同じ姿勢でバイブを角度のまま保ち続けた。下肢を上に上げられた姿勢で、壮一の頭に血が上り続け、余計に沸騰させ、全身がぶるぶるとバイブ以上に震えて、ヒトというより、意志の無い一つの肉の塊になっていった。

「……ぃっ……い゛っ……ぅぅ……」
「……」
 薫は文庫本の文字を目で追いながら、食いしばられた壮一の歯の間からダラダラと涎がでているだろうと思った。
「し、ぃ……っ、ほ、しい……」
「……」
 文庫本のページをめくると、不埒な女によって男が平手されている良い場面だった。あと数ページもすればもっと良い場面が来るに違いない。
「かお…゛…っ、」
 本の中では、男は怒ることもせず、去っていく女の後ろ姿を縋るように眺めて何も言えずにいる。
「る゛…‥っ、……ああ、!!、」
 薫は本を見下ろしたまま、片手で器用にバイブの振動を変えた。大きな悲鳴が上がって縄が軋み、殆ど動く余裕がないはずのベッドさえゆれた。それほど悶えているのだ。
「ちっ、うるせぇなぁ……いいところだったのに……」
 薫は腕を思い切り振りかぶって文庫本を壁に打ち付けるようにして放り投げ、ばさりと開いたまま本が床に落ちた。それは壮一の部屋から拝借した文庫本だった。悲鳴が小さなものになり、代わりに身体が声を堪えた分激しく悶え震え、ただならぬ汁を流し始め、飛沫が薫の頬にとんだ。
「様……っ、薫様のが……ほし……ぃです……ぅ……」
 ようやく薫が壮一の方に目をやると、ベッドに真っ赤になった頬を猫のようにこすりつけながら、とろんとした目が薫を見ていた。
「……、……。」

 バイブを抑えていた指を離すと、汚い音と飛沫を出しながら壮一の身体から飛び出、ベッドの上を跳ねた。薫は五月蠅い淫具のスイッチを静かに止め。壮一の期待するような吐息を聞いてしばらく目を伏せ黙っていた。
 薫は再び壮一の方に目をやった。縋りつくような眼。コロシテヤリタクナル。

「……何言ってんだ?てめぇ、ついさっき、もう向こう一か月はヤらねぇ、と俺が言い、お前は承諾したばかりだろ。男同士の約束を、まさかこんな秒速で破るとは思いもしなかったぜ。前から思っていたがやはり最低な屑野郎だなてめぇは。男の風上にも置けねぇ。」
「そんなっ、こんなちゅうとはんぱ、きょうくらいっ、」
 壮一が芯から絶望の表情を浮かべているのを見下ろしていた。それでも壮一の雄はますます膨らむばかりだ。
「しかも、お前はこいつを」
 薫は穢い物でも持つようにバイブを手にして壮一の口元に持っていった。
「どうして勝手に出したんだ?ガバマンからきたねぇ音出して、飛沫が俺にまで飛んできたぞ。おい。」
「か、っ、薫のが……はやく、薫様のを……」
 はぁぁ……と息ついて壮一は黙って目を逸らした。
「……。俺のが……なんだ?続きを言ってみろ。」
 壮一はベッドに顔を埋めながら言った。
「気持ちよく、させて、さしあげようと……っ」
「俺がいつそんなことお前に頼んだ?俺の為?はぁ~?いつだって、いつもいつもっ、全部てめぇの都合だろ。いい加減なこと抜かすなよ屑!」

 薫は今日ホテルに来てから着衣のままで、1人裸にさせた壮一に、自分の肉棒はおろか皮膚にさえ触れさせていなかった。薫はボストンバックの中から麻縄の束を取り出し、壮一の上半身も縛り始めた。壮一の皮膚は、指が皮膚を貫通して中に蕩けて入るのではないかというほどに蒸れ熱せられてホットチョコレートのようだった。くちくちと、開いたり閉じたり、壮一の口の代わりに肉壺が震えて物欲しそうな音を立て続けていた。

「うるせぇマンコだな。ちっとは静かにできねぇか。」
「う゛……ごめん……ぁ゛!!」

 乳首を縄と縄で挟みんで縛り、縄の隙間からピンクの突起が飛び出た。常に乳首をつねられ散るような感覚に、壮一は食いしばった歯の奥、喉奥からうなり声を上げ、空っぽにされた穴が激しく収縮し音を立て求めた。

「そんなに欲しいのか?」

 上半身の緊縛も終え、吊り上げた。薫は壮一の全身を目に納めるためにベッドから降りて、後ろに下がった。上半身を後ろ手に回され後ろ手で縛られ下半身と同じように吊られ、ただ右脚一本がの指先がベッドを擦り、横向きの姿で吊られていた。長い間、吊り上げられ上げっぱなしの左脚は上半身に比べると、縄目のせいで真っ赤になり、指の先端は白くなり始めていた。そろそろ降ろしてやらないと、血流に悪い。薫の頭の半分は冷静に状況を確認していた。緊縛はゆっくり状況が見れるから良いのだ。
 薫が考えている間に、壮一が啼き始め、思考が乱される。

「なんだ。言いたいことがあるなら、はっきり言え。」
「い…‥欲しいんだよォッ゛、!!、薫ッ……薫様、欲しいです……おねがい……っ、おねがいだから……っ、今日で、きょうから、ぜんぶっ、なにもかも、オナニーだって、がまんするから、っ、だからァ……っ!」
 縄が軋む。薫は用意していたものをボストンバックから取り出した。今まで縄も何もかもプレイの道具は、壮一が購入して薫に与えていたが、それだけは違った。

「そんなに欲しいか。じゃあ、やるよ、ほら。」

 壮一は霞む視界の中で、それが何か最初まったく理解できなかった。薫の大きな手の中に心臓程のサイズの黒い塊が鎮座していた。薫はそれをもって近づいてきて、ベッドに腰掛けた。薫の丁度手の届く位置に壮一の熟れた雄が捥がれるのを待つ果実のようにぶらさがって、薫の方を向いていた。薫は壮一の雄を睾丸と一緒に掴み上げ、引き捥ぎ去勢でもするような強さでぎりぎり握り、あまりのことに絶叫、パンパンに腫れあがっていた雄も流石の強烈な握力にしぼみ、その瞬間を狙ったように、薫の手の中にあった真っ黒な檻が、壮一の股間を覆って金属質な無機質な絶望の音を立てたのだった。
 カーボン製の真っ黒な貞操帯が壮一の股間を覆って金色の錠前が光っていた。薫は鍵をポケットにしまい、陶然と茫然、絶望と疲労の縁に、まるで死体のようになった柔らかな壮一の身体からするすると縄目を解いていった。壮一の身体からはすっかり力が抜けていたのと同時に強烈な下半身の痛みと共に意識が遠のいていくのを感じた。最後に彼の名前を呼べたかどうかさえ、わからない。

 シャワーの音がする。壮一はもうベッドにそのまま吸い込まれてしまいそうなほどにぐったりとして死んでいた身体をようやく軽く動かせるようになったのだった。それから、夢じゃなく、下半身にある種の拘束具、漆黒の貞操帯がとりつけられたままになっている現実を目にした。身を軽くくゆらしたくらいでは外れない。指で爪でこじ開けようとしてもびくともしない。熱かった身体がどんどん冷えて背筋からぞっとしてくるのがわかる。身を起こして自分の身体に起こったことを改めて確認し、薫の姿を探した。
 彼は一人で勝手にシャワーを浴びにいったようだった。今日、一度も壮一の前に裸を晒していないというのに。
「……」
 今、薫の鞄と服とは無防備に床の上に散らかっていた。壮一はベッドの上からじっとそれを見ていた。彼のポケットの中に小さな鍵が消えていくのを最後の視界の中で、見たのだった。壮一はベッドの上から降りよう降りまいか煩悶した。しかし結局、壮一の身体はもう、薫の私物に勝手に触れることはできなくなっていた。ベッドの上に正座して待つとようやく彼が一糸まとわぬ姿で戻ってきた。身体から蒸気がたっている。思わずひれ伏したくもなる、水の滴った美しい獣の身体だ。

 壮一は溢れ出る唾を飲み込むと同時に股間に今まで感じたことの無い激痛が走るのを感じて、身体を前かがみにおった。正座していたせいでまるで何もしていないのに彼にひれ伏しているようだ。こんなのおかしい謝罪するのはむこうじゃねぇかっ勝手にプレイに俺が知らぬうちに妙な物持ち込みやがってクソッ、クソッ

「結構な姿勢だな、壮一。しばらくそうしてろ。」
「……」

 プシュ!缶ビールの空く音。ごくごくと彼が喉を気持ちよさげに鳴らす音を壮一は暗闇の中で聴いていた。

「これで嫌でもお前は俺との約束を守らざる得ない。まあどうしてもっていうならケツ穴の方は空いてんだからそこで適度に遊んでな、変態さん。ケツ穴塞ぐタイプの奴やったって良かったんだから、俺って甘いよなお前に。」

 痛みが激痛から鈍痛に代わり、壮一が頭をあげかけると、すぐ目の前に薫の素晴らしいペニスそれから巨体があり、壮一の上にドスンと座ってテレビをつけたのだった。野球中継の音が響く。カーン!と良い音と実況中継の声。

『打ったー!!森本!!これは打ちました!ホームランです……っ!!』
 
 姿勢が居心地悪い、骨が軋む。まだ火照る皮膚の上、縄目を薫の湿った尻が擦ると、たまらない。鈍痛が大きくなって、壮一は言葉を発せられなくなり、獣のような低い声で呻いた。
 上でまた、ごくごくと上手そうに喉を鳴らす音が聞えた。



 青年の下半身に大きな穴が開いていた。青年の身体は歪に下半身から裂け、明らかにそれは死んでいた。
 テレビ画面の中に、溶岩のような大きな穴が映し出されている。

 DVDは終始無音だった。冒頭、青年の身体は打たれた痕にまみれており、死んだように動かなくなっていたが胸が微かに上下しているのでまだその時点で生きているのがわかった。肛門に異物を挿入されても抵抗する力も無いか、動かない。もし音が入っていたなら、呻き声を出していたかもしれない。ベッドの上に、場違いに小さな赤い花びらが散乱していた。しかし、よく見ればそれは花びらではなく、人間の爪だった。赤いのは血のせいだ。

 異物は最後彼の中で爆発した。文字通り爆発したのだ。
 肛門に爆発物を挿入し直腸内で起爆させた。それで、彼の股座に大穴が開いて、3分ほど同じ角度、彼の全身を下半身の側から、長写ししてある。千切れかけた片方の睾丸。ブラウン管の中の映像はぶつりと唐突に終わる。

「……。」

 薫はDVDをデッキから取り出し、指で両端を摘まむ。割ろうと思って歪ませては、元のように水平に戻す動作を何度か続けて、ケースの中に静かに納めた。DVDディスクの表面は真っ白で何も書かれていない。手にびっしょりと汗をかいていた。5回見て5回同じように割ろうとして、ケースの中に閉まった。それから……。

 双月を通して、例の黒いハンカチの男から贈られたDVDだった。双月は中身は見ていないと言った。見ていたら渡さなかっただろう。薫は1週間放っておいて、見ないまま捨てるべきか悩み、結局見て、後悔し、男と自分を恨んだ。

 DVDのケースの中には1枚、上質な紙に電話番号らしき数字の羅列が記載されたものが入っていた。数字だけだが、美しい字体で乱れがなく痣のような青黒インクが使われていた。あの男の連絡先だろうが、どうして、こちらからかけることがあるだろう。

 警察に通報すべきかと思ったが、できなかった。したところで、こちらが追求され、双月にも迷惑がかかる。それに素性のわからぬあの男が、何をしてくるかわからない。
 男からは時々、そうした贈り物が直接郵送で届くようになっていた。送り主の名は無い。彼に関してわかるのは、最初に贈られたDVDの中にある電話番号だけだ。双月に聞けばもっと様々なことがわかるだろうが、こちらから進んで知りたくない、進んで知ろうとしていることをあの男にバレたくない。薫は贈り物を段ボール箱に無造作に何でもないもののように突っ込む。段ボール箱の中身が徐々に黒い物で満たされていく。

 薫は2回生、壮一は4回生になっていた。夏を過ぎても、壮一は院に進む勉強も就職活動もしていない。
 プロレス研で薫は時々OBとして現れる壮一の相手をする。薫は既に壮一から部をまとめるように長の地位をたくされていた。就職活動にも有利になるからと壮一から譲られた立場。しかし、最初は興味の無かったプロレスそれ自体に面白みを感じていた。そして、薫は会の人間から慕われるようになっていた。最初は反感を持っていた男達も薫の実力を見ている内に、殆どいなくなった。どうしても気に喰わない者は自ら去っていった。

 壮一のと関係は続いていたが、元々多かった喧嘩の数が増え、プレイで消化するたびに苛烈さを増した。

 このままでは、壮一を殺しかねない。時々そう思って手を緩めるのが壮一に伝わり、プレイの過激を極めている頂点に達する時「いいんだ……っそのままヤレよ……っ、いい、お前ならいい……」と彼を叫ばせた。

 いつからか壮一には、被殺の傾向が出始め、それが薫の殺意から伝染したのか、元からあったものなのかわからない。プレイ中の盛り上げとして時に良かったが、だんだんとその声が気に迫っているように感じられた。本気で言っているように聞こえ始め、夢にまで出てくるようになり夢の中で願いを達成し夢精し、絶望した。

 もう、終わりだ、と薫は思っていた。自分の下劣な欲望に従って、人一人を殺して、自分の将来を台無しにしたくはない。薫はだんだんと冷めた目で壮一を見るようになった。俺ならお前の相手を勤められると最初にそう言った。確かにそうだった。彼の言葉に嘘はない。彼が嘘をついたことは無い。

 しかしこのままでは二人最悪の結末を迎えるだけだ。自分はもちろん、壮一の将来を台無しにする気も無い。壮一に先のことを聞くと曖昧なことしか答えない。今、お前との時間があれば良いという。それは嘘では無いだろう、本心だからこそ、一度距離を置けば、彼も目を覚まして自分の将来を真剣に見据え始めるだろうと思ったのだ。
 元々できの悪い人間ではない。寧ろ社会的に見れば卓越した存在だ。

 彼に説明した。一度、距離を置かないかと。彼の部屋で話をした。壮一の反応は、取り乱すこともなく冷静で「わかった。」とはっきり言った。それから彼は、細くカーテンの開いた窓の方に行き、しばらく外を眺めていた。そして、薫に背を向けたまま「出てってくれ。」と言った。

 それ以上一言も発さず、口を固く結んでいるようだった。薫は脚が床に張り付いたようになって動かないのを、自分が言いだしたことだろ!と自分を奮い立たせ何とか浮かせた。まるで誰かが脚にすがりついているかのように重い。こんなに脚が重いことは今まで無かった。柔道やプロレスの苛烈な試合や練習の走り込みの後でさえ、これほど身体を重く感じたことは無い。

 ドアノブに手をかけてから、最後になるかもしれないからと、もう一度壮一を振り返った。窓の外を見ていたはずの彼が、こちらに横顔を向けており、ハッとした顔をした。それから口を開きかけるのを見た。もし、今、何か彼の口から出た言葉を聞いたら、瞬間、今、口にした全てを撤回して、嘘だとすがってしまう、薫は全身の力を振り絞って重いドアを開け放ち、閉めもせず、学生寮の廊下を走っていた。前もこうして彼の前から逃げたことがあったが、今度は、背後から追ってくる声は無かった。
 
 一度決めたことだ。距離を置く。会えないのではない。しかし、壮一は会にも姿を現さなくなった。興行にも大学祭にも見物人としてさえ姿を現さない。行く先を失った足が学生寮の周囲を徘徊していることがある。無意識に目が彼を探していることは、薫を絶望させた。

 彼の完全にいなくなった会は、薫にとって墓場に近い場所だった。居るだけで時に辛い場所になったが、彼の残していった場所や人間を放っておくことは、彼への裏切りになる。それはできない。薫は最後まで勤めを終え、国家公務員試験にもめでたく合格した。壮一の言った通り、会で長を勤め上げ成績を残したことは気骨があると、面接官達、直属の国の中枢に人間達に薫に対して良い印象を与えた。

 その間にも、何人かと関係を結ぶこともあったが、やはり一夜だけか、一か月以上長く続くことは無く、薫は性行為それ自体にも飽き飽きしていた。
 SMを好むと自称する人間達とも会ったが、足りない。壮一と深いところまで降りていった世界には到底到達し得ない。そうして双月達の棲むSMの世界から自然と足が遠のいていった。リングの上で闘っている方がまだ欲望を満たせるほどである。
 あるいは……定期的に例の男から届けられる他では見ることのできないDVDの方が。薫は何度も段ボール箱ごとそれらをアパートの庭先で焼くことを試みたが、できなかった。届き続けるDVDも、受け取り続けた。贈り物は薫が大学を出てからも間をあけながらも定期的に、どこで知ったのか住処を変えても郵送で、やはり送り人の名前無しで届けられ続けた。

 社会人プロレス団体に所属しようかとも考えたが、国家官僚として働き始めれば余興をやっている余裕も無い。0時を過ぎてタクシーで帰るのが当たり前の世界だ。そうして瞬く間に3年の時が過ぎた。

 その間も薫は壮一のことを、忘れたのでは無かった。一番に思い浮かぶ場面は学園祭で彼と闘った時のこと、その日の打ち上げの後の夜のこと、それから約半年の最も濃密な、蜜月と言える時期のこと。思い返すと昂るが、やはり我々は異常だったと、冷静に俯瞰できる。それでも恋しくはなる。だから、もしもう一度会えば、我慢していた全てが台無しになる予感があり、連絡しようと思えど、連絡ができない。ただ時間だけが過ぎた。壮一の卒業後のことも、敢えて、知らないままでいた。
 
 その日も仕事を終え、丸の内線の地下鉄のホームで終電を待っていた。終電に間に合うのは久しぶりのことだ。金曜の夜で、明日は休み。一週間の激務による疲労のため、一日寝たきりになるだろう。薫は殆どの休日を疲労回復のため、無為にやり過ごしていた。

「……君、もしかして二条君じゃないか?」
 身に覚えのある声がして、振り返った。
「覚えてる?」

 久しぶりに、自分の心臓が歪な音を立てるの聞いた。血の臭い。丁度その時、滑り込むように電車がホームにやってきて生ぬるい風が顔を撫でた。薫は「覚えてない」と嘘を言って、地下鉄の方へ延ばしかけた足を止めて、もう一度男を振り返った。男の髪は、艶やかなまま後ろで束ねられて垂れ下がり、以前より爽やかな印象を薫に与えたが、倦怠はそのまま、細面で、どこか冷ややかな顔つきも変わっていない。地下鉄のドアはまだ開いている。今ならまだ、乗れる。男は親し気な笑みを浮かべた。

「この後一杯どう?俺は明日休みだし、朝まで開いている良い店ならいくらでも知ってる。それから、俺も君も金に困ることは無く、使い道に困っている。そうだろう。」
 
 最終電車のドアは音を立てながら目の前で閉まった。薫は自分の手が汗ばんでいるのに気が付いた。
 タクシーに乗っている間中、学生寮の壮一の隣の部屋の奇妙な住人、今では医師になった姫宮和紗カズサは、軽快な口調で話し続けていた。よく口のまわる男だ。彼は一方的に仕事の愚痴、近所の人間の愚痴を言い続けて学生時代の話を持ち出すのを敢えて避けているようだった。薫は自分の脈拍が徐々に落ち着いていくのを感じていた。

 姫宮と赤坂の店を梯子する。彼の案内する店の味は良く、酒も良かった。徹底した仕事人間となって国の中枢で成果を上げることだけに身をささげていた薫の中に、久しぶりに忘れていた享楽が漲ってくる。午前も2時をすぎて、最初の緊張感は薄れ、薫もぽつぽつと口にする気も無かった仕事や近況を姫宮に語るようになった。彼は精神異常者のカウンセリングを受け持つ医師さながら妙に優しい目つきで薫と向かい合っていた。

 姫宮はにこやかに薫の話を聞き終え、グラスに一度口をつけてから、腕時計を見、悪戯っぽい笑みを浮かべた。

「少し変わった場所に行ってみないか。」
「変わった場所?風俗なら興味ありませんよ。」
 姫宮は軽快な声を出して笑って口を拭ってから「ちがうちがう」と言って会計を呼んだ。
「騙されたと思ってついてきなよ。今日だけ、一晩付き合ってくれ。」

 姫宮はもしかして自分と寝たいのだろうかと一瞬考えたが、無いだろう。そういう気は今まで一切会話の中にも仕草の中にも無かった。タクシーは赤坂を出て、夜の街の方へと向かった。

 錆びれた入口もよくわからない程の奥まったビル。入口で身分証の提示を求められ、運転免許証を見せた。
 中は、想像以上に広大で、薄汚れたビルの外観からはまったく想像できない豪奢な装飾。一階から三階までが吹き抜けになっており、二階席、三階席からは一階のホールが見下ろせた。
 
 一階のホールの中央に舞台があり、そこで身体中に花びらをまとった裸女が狂ったように踊り、周囲に男達が少し離れたところに女達がぽつぽつといた。洒落た身なりの者は二階席や三階席に多く陣取り、姫宮は二階席の奥まったソファに薫を連れて行った。紅いソファの上に二人の身体が寄り添うように沈んだ。

「なんです?ここは。」

 ようやく口を開いた薫に姫宮は「ダンスホールさ」と笑いながら言った。しかし躍っているのは舞台の上の女と、唯一光に照らされた舞台のすぐ側まで接近して共に狂乱して踊っている男や女だけではないか。

「狂人のダンスホール。」

 たいして面白くも無い。舞台の上の女が一礼して去っていくと、音楽がクラシックなものに変わって人々の談笑する声が大きくなった。酔いが回っていて音が頭に変な響き方をする。

 また舞台の上に違う、今度は男が2人現れた。薫は、はじめぼんやりと舞台を眺めていたが、だんだんと目の前の景色がはっきりと異常に色づき始め、自分の口からしばらくなかったような荒れた呼吸が出かかるのに気が付いて、意志で息を留めたが、身体が酒を飲んでいた時よりも、ずっとはるかにはやく脈打ち、発汗し、極彩色を帯びたその舞台から目が背けられない。

 いくら姿かたちが変わって居ようと、すぐにわかった。彼だ。
 横で姫宮が何か話しているが、全く耳に入ってこない。姫宮も途中から黙って静かにソファに身を沈めて舞台の上を眺めるようになった。

 舞台の上で、壮一と壮年の男がSMショーを演じていた。壮一の身体は以前より幾らか痩せてしまって、見た覚えのない彫り物まではいって、身体に何か煌めいていたが、元々舞台の上で映える身体は、リングの上で舞っていた時と同じように輝いて、男から縄と鞭を受け、切られて、血を流していた。二階席からは細かい表情までははっきり見えないが、彼の身体が段々、斑に赤らんでくるのは、見えた。以前薫の腕の中で色づいていった身体と同じように、彼の身体は色を変え、輝いた。鳴り響く音楽の隙間に彼の喘ぐ声が聞えた。心の奥底に封じ込めていた質量を持った記憶が、景色だけでなく、身体全体に蘇る、彼の肉体と触れ合った記憶のすみずみまでもがありありと、身体全体を浸す。手の中に彼の触れた時の体温が蘇る。それは素晴らしい夢であり、悪夢であり、薫は夢と目の前の絶望の景色の間を行ったり来たりした。

 ショーは15分程のものだったはずだが、1時間、いやそれ以上に長く感じた。薫は肉体がいつかのように泥のように重くなって、彼らの姿が見えなくなっても、何も考えることができないままでいた。震える手が目の前でグラスを掴もうとして手を滑らせ、大きな音を立てて倒れた。なみなみと注がれていた液体が手、そしてテーブルや服、床まで濡らした。手が冷やされた刺激で、少しだけ意識がはっきりした。

 姫宮が「あらあら、しょうがないなぁ、もう……」と赤子をあやすように言って周囲を片付けている。

「なるほど、最初からそういうつもりか。」

 薫は自分の足元に屈みこんで後始末をしている姫宮に言った。声には怒気が含まれていた。姫宮は片づけを終えるまで黙っていたが、ゆっくりとした仕草で横に座り、悪びれた様子もなく、またクライアントを見る精神科医の顔つきで薫を見た。薫はこの男の胸倉を掴んでテーブルに顔面を叩きつけてやろうかと動きかけた腕を抑えた。

「気になってただろ。間宮君のこと。君ら、随分仲良かったもん。何で続かなかったの?」

 耳の中に声がはりついて離れない、この感じ。薫は姫宮は、全てわかっていて聞いているのだと思った。薫自身の口から言わせたいか、葛藤して、苦悶している表情を見たいのだろうとすぐにわかる。

 薫はつとめて冷ややかな目で姫宮を見つめ返した。さっき軽く取り乱した自分を見て、このキチガイ医者はきっと自分の思った通りの反応を見れたと悦に浸って心の中でほくそ笑んだではなかろうか。

 ああ、ムカつく。何て野郎だ。だが、こういう感じで腹が立ってくると、少しは意識がはっきりしていい。この男に腹を立てて利用しろ。壮一に対する思い、興奮を、恋慕を薄めろ。大体、たかがショーだろ、しかも、昔の人間のことじゃないかよ。こんな目の前の下衆野郎に、自分の内面を見透かされてはいけない、穢されてはいけない。
 姫宮は薫が黙っているのをしばらく眺め一瞬感嘆したような目をして、微笑んだ。

「俺もね、気になってたのさ。君が順調にエリートキャリアを邁進していることは最初からわかっていたが、間宮君の方がなかなか捕まらなくてね、少し根気をもって彼の消息を追ってみたんだ。それで、見つけた。彼は2年くらい前からここに出てくるようになったらしい。本業は知らない。ここから一方的に見てるだけで、直接喋ってないからな。舞台からこの席は見えないはずだ。いつもさっきと同じ男と一緒にやってる。彼が今の主と言うわけだろう。もしかしたらビジネスパートナーという可能性も消しきれないが、俺の見た感じでは、多分そうじゃないだろう。俺としては君とのほうがよく似合っていたと思ったね。」

 薫は代わりに運ばれてきたグラスに黙って口をつけ、舞台を見下ろしていた。
 舞台の上にはまだ少し、血痕が残っていた。壮一の血だった。
 下へ降りようか、と思った時には男が数人舞台にあがり、すっかり奇麗に舞台を磨き上げてしまっていた。

 その後もショーが続き、薫はソファの上で時計が朝の4時半を指すのを見た。
「そろそろ始発も出るので、帰らせてもらいます。お誘いいただき、どうもありがとう。」
「こちらこそ、いいもの見れたから。また飲もうね。俺の連絡先は大学の時から変わってないから。いつでも気軽に声かけてくれよ。きっと君の方が忙しいだろ。もしくは、俺はたまにここに来るから、ここに来れば会える。」
 しばらくは絶対会いたくないね死ね下衆医者、という言葉を心にしまい、ビルを出た。

 ビルを出たと同時に、朝陽が目に痛んだ。久しぶりの土曜の朝帰りだったが、薫の身体には、昨夜丸ノ内線のホームに立っていた時に激しく感じていたはずの眠気というものが全く無くなっていた。薫はその日から、壮一の消息について、可能な限り調べることにしたのだった。その間も仕事は粛々とこなした。休日とほんのわずかな隙間の時間を無って、役人の地位を利用して少し黒い手や黒い金も使った。少しだけだが彼の現況が把握できた。

 SMショーの男は雇われたプロであり、彼と関係、調教こそしているようだが、本当の主ではない。本当の主は某大企業の会長の男、Yであり、壮一は職にはついておらず、彼の元で「飼育」されているらしかった。「飼育」と言う言葉を使うのは憚られたが、可能な限り集めた情報をまとめただけでも、最早そうとしか表現できないのだ。囲われているという生易しいものではない。明らかに壮一は自らの手で自分の人生を破壊しに、終わらせに行っていた。

「馬鹿だ……本当に、馬鹿だよお前。何やってるんだよ……俺の知らないところで……」

 いや、そもそも知ろうとしなかったのは自分では無いか。
 もしあの時、もしあのまま、自分が上手く自分の欲望と折り合いをつけて壮一と続けていられたら?
 カーテンの隙間から照らされた光に濡れた横顔、開きかけた口が何度も目の前に蘇った。
「……、……。」
 あの時お前は何を言おうとしていた?
 いや、そもそも、俺との関係がはじめから無かったなら、お前はそんなところに行かなかったのではないか。
 マトモな暮らし……マトモな人生を……俺が……

 Yは時折会社と家の往復をリムジンに乗って行い、殆ど世俗とのかかわりを断っている。ショーの時は、三階のVIP席に現れる。VIP席には特殊な会員証が無ければ入れず、入口も一般入場口とは異なる。会員証の発行ルールは不明だが、薫がおいそれと簡単に手に入れられる代物ではないことだけはわかった。薫は姫宮に連れられた日から一度もまだあのビルに足を踏み入れていなかった。薫は自分でやれることは、もう現状が全てで、それ以上の行動もできないことがわかった。

 薫は部屋の奥にしまい込んでいる段ボール箱、いっぱいになった段ボール箱の底、闇の底を探っていた。
 黒いインクで番号の刻まれた紙片は、全く経年劣化の様子もなく真っ白のまま、最後に見た時のまま、薫が再び目にすることを待ちわびていたように、美しく差し込まれたままになっていた。

 男はすぐに電話に出た。電話の向こう側が異様に静かなの気味が悪い。
 数年ぶりに聞く男の声は、どこか優しかった。

 詳細は伝えず、直接会って話したいことがあると伝えた。断られたら断られたらで良かったが、未だにあの贈り物は二条の元に定期的に届けられ続けていた。数年の間、ずっと、途切れることもなく。だから、きっと断らない。
 次にこちらに来るときに会うという簡単な約束がとりつけられ、電話は切れた。

 昼間の喫茶店で待ち合わせた。現れた男は上等なスーツ姿で、帽子は被っていなかった。数年の時を経たが、顔つきは以前会った時から全く変わっておらず、反対に薫の方が多忙の中で顔に年齢を重ねていた。彼が目の前に座ると、その周囲だけが温度が下がったような、海の底に沈んでいるような冷ややかな雰囲気になった。真っ昼間というのに目の前に深い闇が横たわっている。

 男は手早くウェイターを呼んでブレンドを頼み、お前は?と言う目で、薫をあの黒い瞳で見た。そこにどこか親しみを覚えないでもないのが、薫には不思議だった。最初に会った時は敵意しか感じられなかったというのに。

「私も同じものを。」

 ウェイターが去っていく。同時に男の電話が鳴り、彼は席を外すというジェスチャーをして一度席を立った。彼が居なくなった空間が、妙に空虚で、それは、それほど彼の存在の圧が大きいことを意味した。やはり彼は、一般社会の人間では無いのだという気にさせる。彼が戻ってくる頃にちょうど珈琲が2つ運ばれてきた。彼は緩慢な動作でソファに腰掛けた。

「それで、」
 男は煙草にマッチで火をつけながら、テーブルに腕を突き、紫煙と共に口を開いた。
「何が望み?」

 鼻腔を甘い香りがくすぐる。男の、薫の内側まで覗き込むような目を見ていると、本当は既に全て知っていて、薫が何を言いだすか全てわかったまま、目の前に座っているのではないかという気にさせられる。彼は紫煙を吐きながら口元に軽い笑みを讃えていた。薫は全てを男に話していた。男は話を聞き終えて、カップに口をつけ、言った。

「ま、5億だな。」
「何がですか?あなたに支払えと?」
 男は虚を突かれた顔をしてそれから俯いたかと思うと、肩を揺らし、笑い始めた。
「君には俺がそんな鬼に見えるのか!まいったな!俺は君に親しみを感じてるから、君の前では大人しいつもりでいるのに。」
 見えるよ、と薫は思ったが黙っていた。男は顔を上げ、微笑を残したままの顔で続けた。

「話を総合すると、君は権力と金だけはある老人からお友達を救い出したい。そのために爛れたクラブのVIP権が欲しい。で、そこに行ってその老体と話をつけたい。そういうことだな。そうだな、VIP権を手に入れることくらい、はっきりいって俺には簡単だ。ここから電話一本すれば済む。一時間もしない内に会員証までここに届くだろう。それを君に、俺からの少し遅い卒業祝い就職祝いとしてあげてもいい。でも、二条君、君わかってないよ。全然わかってない。老い先少ない成金ジジィがおいそれと自分の貴重な財産を手放すもんかい。君は自分の頭脳、そして交渉術に自信があるかもしれないが、君みたいな若造、話さえさせてもらえないし、逆に消されるかもしれないぜ。しかもお前、役人なんかになったらしいね。そうなるともっと話は厄介だ。お前のキャリアはすぐさま潰されることになるだろう。最初はさりげなく、じょじょに、一生コピー機の前でコピーをとるような仕事に従事させられうる。それくらい危ない話ってことさ。5億っていったのは、万に一つそのジジイがお前に提示してくる可能性のあるお友達の買取最低額さ。最初から手放す気なんかないから、戯れで言ってくるんじゃないかという俺の予想だ。」

「……別に職なんていくらでもまだ見つかります。キャリアの話は……、今はいい。後で考える。」
「ふーん、全て、捨ててまでなんとかしたいんだな。覚悟のある人間は好きだ。とてもいいよ。……。」

 男は煙草を灰皿の上でもみ消し、テーブルの上で指を組んだ。傷、穢れ一つない癖の無い指だ。

「ところで、二条君、俺の贈り物は、君の気にいったか?」

 急な質問に薫は答えに窮して、男からカップに視線を移し替えた。男の低い揺らぎある声が上から降ってくる。

「YESかNOだけいいよ。もしくは首を縦か横に軽くふるだけでもいい。……。二条君、最初に断っておくと、俺は嘘をつかれるのがとても嫌いなんだよ。おべっかも嫌いだ。だから役人も政治家も、好きじゃない。気を遣わずに素直に答えてくれないか。君と友人になるにしろ、仕事をするにしろ、これは非常に大事な問題だ。」

 薫は数秒の間を開けて、俯いたまま軽く頷いた。YES。ふふふ、と笑い声。

「だと思った。君の気に入りそうなのを選んだから。お前は人体が内部から爆破され破壊され溶岩穴になった部分に激しく興奮しただろうな。抜いたか?どのくらい出した?どうせ、たっぷり出しただろうな。やはり派手な方がより好みか?お前自身の手で起爆したいと思ったか?もっと太いのを。その前にもっと、いたぶりたいと思ったか?犯したいと思ったか?三日三晩?一週間?それとももっと長期的に?単独で?複数で?どういう拷問を想像できた?どんな器具を使う?或いは作りあげる?人体に、虐待を加えられる爪が、指が、合計たった20本ぽっちしかないことを、男の男根がひとつ、睾丸が二つしかないことを、臓器が一つ或いは一つずつしかなく、脆いことを、生きたまま砕くことのできる骨の本数に限りがあることを、残念に思ったか?それとも良いことと思ったか?アレらは死んでいいものだから、何も気に病むことは無い。むしろ俺達の気を良くするために最後に大切に使われて良かったくらいなんだ。せめてもの貢献なのだから。」

 薫は、やはりこの男を呼び出したのは間違いだったとテーブルの下で汗ばんだ手を握った。
 少しの沈黙を経て、男は落ち付いた調子で再び話し始めた。

「二条君、俺は素直に答えてくれたお前にならば、2つの提案ができる。1つ目、すぐさまVIP権を取り寄せてお前に手渡すこと。これはお祝いとしてお前にあげるから、謝礼不要。でもおそらくお前がどれほど策を練ろうが、さっき言った通りの展開になる。この世界はお前が思っているよりずっと汚くて腐っているから。2つ目。仕事として俺に全てを委ね依頼、契約すること。全てというのは、結果の事だ。お前は自分の手は一切汚さず、結果だけ手に入れることができる。お前の前に五体満足でお友達を連れてきてあげる。これは仕事だからそれなりの労力を要するし、仕事ならば俺達は完璧にやり遂げる。それなりの謝礼も必要になってくる。」

「謝礼……それは、5億か?それ以上か?」

 男は答えない。薫はようやく顔を上げて男を見た。彼はさっきと打って変わって表情を消していて、そちらが本当の顔のように思える。視線が交錯すると、後悔と期待と恐怖もあるが、やはり親近感、懐かしい物を見ているような気にさせられる。俺の中にあるもの、それから、おそらく、壮一の中にも、あったもの。

「これからも俺と付き合い続けてくれ。無視せず、逃げずに。それが謝礼だ。」
 男は軽い口調でそう言って唇を軽く舐めた。薫は表情を曇らせた。
「どういう……定期的に会う、そういうことですか?それだけ、ですか?」
「そうだ、その理解で良い。それで俺が差し出したお友達とのことを聞かせてくれ。細かい点も言える範囲で。君のお役人という立場のこともある。会う場所は配慮する。」

 ほとんどタダのような物だ。しかし、タダより怖い物は無い。
 何故だろう、金よりも、なにかずっと大事なものを失うような予感があるのは。
 悪魔は、人間の魂を食う。

「それから、これは仕事だから、お前の依頼、要望通りに事を行うけれど、お友達の意思はわかっているのか?」
「意志?」
「そう、意志だ。お前は、勝手にお友達を被害者のように扱ってまるで”救出”しようという勢いだが、どうもおかしくないか?彼は自ら望んでそういう立場にいるんだよ。お前に会いたくないのかもしれない。お前の事なんかもう忘れているかもしれない。過去の事、どうでもいいことと思っている。そして、その老人をどういう意味であれ、今は愛しているのかもしれない。それを無理やり俺と言う穢い手を使って引き離そうとしているんだぜ、お前は。自分の都合、身勝手で。憎まれるかもよ?恨まれるかもしれないぜ。お前の無駄で身勝手な善意が、お前が大事に思う人を傷つけることになるかもしれない。そこまで考えてるかって意味だ。良いか二条、もしお前がヒトならば、ヒトの幸福は他者が決めるものじゃない、自分が自分の欲望に従って決めるものだ。もしかしたら彼は今、ヒトでなくなって、誰かの意志の元に作られた彼の意志の中で、幸福なのかもしれない。それでも、今回はお前の意思を、お前の欲望をそのまま、通す、それでいいんだな。」

 数分の後、二条薫は、目の前の男、川名義孝と契約を結んだ。
 川名は音楽でも聴いているかのように頷いてテーブルに手をつき、立ち上がった。

「一週間後、同じ時間に、またここで。」

 彼の煙草と香水の残り香が薫の周囲に漂い、半分残った冷めた珈琲が残されていた。
 彼の残り香が消えるまで、海の底に沈んでいるような冷ややかな感覚が薫の周囲に漂っていた。ようやく耳に周囲のざわめきが戻ってくる。身体に入っていた力が抜けていった。



 長い、一週間だった。荊が薫の心臓に根を張っていた。血管は棘の鋭い蔦となって、全身を巡る。荊の種子はずっと前から心臓の奥深くに埋め込まれていて、時を経て、一斉に芽吹いたのだった。

 5分前に、薫は約束の場所にたどり着いた。男は既に来ていた。同じ場所に、同じように腰かけて、入口に背を向け、紫煙が立ち昇っていた。薫は、はやる気持ちを抑えて彼の向かいに座りかけたが、その前に川名が前を向いたまま、指先に折りたたんだ紙を挟んで突き出した。

「間宮壮一君は無事だ、ホテルに泊まらせてある。そこへ、早く行ってあげるといい。ホテルは1週間とってあるからどう使うかは自由だ。料金もこちらで支払ってある。」

 薫がついむしるように紙をとって開くと、メモの上にはホテルの住所と部屋番号があった。礼もそぞろに踵を返しかけた。

「彼は今、喋れない。」
 薫は足を止め、川名を見下ろした。
「なに」
「喉を半分焼かれかけていたんだ。もう少し遅かったら危なかっただろうな。治療させたから、安静にさせておけばちゃんと元の通り治る。ただ1週間はつかえないと思う。筆談なら可能だよ。」
「なんてことを……っ」
 川名はようやく薫を見た。薫のこめかみに、葉脈のような太い青い血管の浮き出ていくの珍しそうに眺めていた。そして再び、視線を手元に落とした。
「さ、もう行け、行くんだ。」

 川名に背中を押されるようにして、薫は店を出た。薫の背を見送りながら、川名は自分の脈拍が少しも変わらずゆっくり脈打っているのを身体に感じていた。脈拍の上昇を感じたことは殆ど無い。一瞬上がって、ほんの数秒で元に戻る。二条薫のことを見たら、何故か義父のことを久しぶりに思い出したのだった。

 身体をソファに深くもたれかけて、誰もいない目の前の空間を眺めていた。
「家族……。」
 実父、兄、義父。
 
 実父の記憶、彼も静かな狂った男だった。兄のことは、どうでもいい。義父は、川名から見れば、彼は、感情と身体が結びついていたし、世間に適応できて、人望もある立派な人間であった。

 裏の世界で働き始め、手に余るほどの金を手に入れるようになってから、彼らの口座に黙って送金していた。
 ある日、義父から電話がかかってきた。幾年ぶりかわからなかった。家を出てから一度も顔も見せていなかった。

『もう金を送ってくるな。今までのもいらない。全て返したい。』
 電話口の向こう側で義父は静かにそう言ったが、激しく怒っていることがわかった。
 理解できないが、理解がしたい。
「なぜ……」
『お前が今、何をやっているか、わかったからだ。穢い金はいらない。』
「……」
 長い沈黙だった。説明、何を説明しても無駄だとわかっていた。
「悪いと思ってる。でも、他にどうしようもなかったんだ、他に……」
 電話はずっと前に切れていた。しばらく耳に携帯をあてたままにしていた。目の前に転がった死体を見下げながら。

 薫はタクシーでホテルに乗りつけ、はやる気持ちを抑えて彼の待つ場所へ向かった。彼の裸体が、薫との交わりとの姿とビルの中で見た姿と、交互に浮かんで消える。彼に会ったら、まず何と声をかければいいだろう。
 
 赤絨毯の長い廊下がどこまでも続いていた。誰ともすれ違わなかった。指定の805号室の前で、息を深く吸い込んでドアに手をかけた、鍵はかかっていない。踏み入れた先、二部屋続きの広い部屋、その奥のベッドの上に、しっかりと衣服を着た彼が、身体をカーテンの閉まった窓の方へ向け、深く項垂れてベッドの上に腰掛けていた。頭が見えないほど深く項垂れていた。部屋に人が入ってきたことに気が付いているはずだが、彼は動かない。薫はベッドの方へ向かい項垂れる彼の横に立った。しばらく、無音の時間が続いた。呼吸する音さえ、聞えなかった。

「間違っていた。俺が……」

 何と声をかけようか、結論の出ないままここへきて、どうしようもないことを口走って、先が無い。

 壮一は項垂れたままポケットを探り、メモ帳とペンを取り出し書き、薫の方へ差し出した。
 薫は胸に痛みを感じながら、汗ばんだ手でメモを受け取り、ひとつ覚悟を決めて、読んだ。

『今は 眠くて 仕方ないんだ』

 拍子抜けするような内容だ。

「……、じゃあ、横になったらどうだ。5人は並んで寝れそうなベッドだぜ。」
『明かりを消して それから 俺の横に 寝てくれないか』
 
 言われた通り、部屋の明かりを全て消す。厚いカーテンが閉ざされると陽光は少しも射しこまず、部屋は真っ暗になった。暗闇の中で彼が動いてベッドに横たわる気配を感じた。薫もベッドの上へ、彼の気配から一人分ほどの距離を置いて横たわった。目が慣れてくると、闇の中にぼんやりと、こちらに向けられた彼の背中が浮かび上がる。

 もっと彼の側へと思うが、身体が動かない。そう思った時、彼の腕が薫の方へ、探るように伸びてきた。薫が身を固くしたままで息をひそめていると、彼は薫の腕を探り当てとって引き寄せた。

 薫の身体は強い力で、引きずられるように彼に密着した。彼は、薫のだらんとした腕を自分の身体に回させ、また、すっかり動かなくなった。向こう側から寝息が聞こえてきても、薫は闇の中でまだ現実感を取り戻せないで、目を見開いたままでいた。
 彼の規則的な寝息を聞いている内に、薫の腕に少しずつ力が蘇っていく。彼の身体に回した腕が、しっかりと彼を抱いてしまうと、もう目を見開いたままで居なくても、よくなった。

 薫が次目が覚めた時、ベッドの隣に誰もおらず、カーテンが開け放たれていた。
 
 獣のように跳ね起きると、ざらざらした小さな雑音が隣の部屋から聞こえた。そちらへ頭を向けると、壮一が、少しやつれはしているが、以前と全く変わらぬ顔で、昨日の服装のまま、ソファに腰掛けこちらを見て笑って、煙草を吸っているのだった。その開いた口から煙と共に歪な雑音が、掠れた笑い声が出ている。それから彼は激しくせき込んだ。

 薫はこぶしを握り締め壮一の元に歩み寄り、乱暴に煙草を奪い取って灰皿にいれ捩じり消し、キッチンに向かった。灰皿ごと流しにいれ勢いよく水をかけた。びしゃ!という音と共に激しい水しぶき。水と灰が服を汚したが、薫は気にせず、水を出しっぱなしにしたまま、テーブルの上に、壮一が勝手に薫の着て来たジャケットをまさぐって出したらしい煙草とライター、それもゴミ箱に叩き入れた。そして、ゴミ箱ごと持って、また流しに立ち、水を流し込み、ようやく蛇口を閉じ、ゴミ箱を床にたたきつけた。ゴミ箱は勢いよく跳ね転がり、中の湿ったゴミが壁に張り付き、床に散乱した。そうしてまた、彼の前に立った。

 からかうような瞳が以前と変わらず薫を誘っていた。サイドテーブルの上のメモに『怒ってる?』の文字。

「当たり前だろ、声が出なくなってもいいのかお前。」
『どうでもいいな』
「……」
『俺は どうでもいい 
 でも お前が そんなに怒るなら もうやらない』
「……」

 それは、どこまでのことを言ってるんだ?煙草の事だけか、それとも……

『仕事はいいのか?』
 壮一は壁時計を横目で見あげるようして指した。9時だった。

「今日は休みを取ってる。それより何か必要なものは無いか。腹は減ってるか?」

 薫は他に言うべきことがたくさんあったはずなのに、当たり障りのなく、必要なことを口に出した。
 壮一はしばらくペンをメモの上で休めていたが、また、書いて見せた。

『まとまった金を貸してほしい、必ず返す。』

 そうだ、彼は今無一文に等しい。

「わかった。おろしてくるから、ここで待ってろよ。」

 薫が行きかけると、腕を強く掴まれ、薫は全身に痺れるような感覚を覚えて、腰が抜けそうになった。足を踏ん張るようにして誤魔化して、振り向いた。
 揶揄するような瞳と、待て、とジェスチャー。腕がするすると離れていき、彼は傍らに置いていたホテルに備え付けの革張りの冊子を開き、モーニングサービスの一番安いセットを指さしていた。
 薫は一番高いモーニングサービスを2つ、備え付けの電話で頼んでから、部屋を出た。
 
 戻ってきたらもぬけの殻、厭な想像ばかりが頭を支配して、自然と全ての動作が速くなる。厚い封筒片手に戻ってくると、彼はちゃんと居た。床に散乱していたゴミとゴミ箱は片付けられ、テーブルの上に朝食が並んでいた。
 壮一は薫が戻ってくるのを待たずに先に半分ほど食い終わり、余程腹が減っていたのか、薫が目の前に封筒を置いても、手を休めることなく食べ続けていた。

「400万ある。」

 壮一は特に驚いた様子も見せず、メモに『ありがとう』と食う片手間に書いた。

 そうだ、コイツはそういう奴だった。プレイの時を除けば、どこにいても、彼の驚きや動揺の表情を見たことを一度も無かった。きっとホラー映画いや、スナッフビデオも、死体さえ、彼なら顔色一つ変えず、見るのかもしれなかった。だから、プレイの時に常軌を逸したことをして驚かせてやろうという気になってしまうのだ。

 彼と差し向いになって、朝食をとるが上手く喉を通らない。壮一がとっくに食べ終わって暇そうにし、メモに何か書き始めた。

『しばらく ここに ひとりに してほしい』
「……」

 壮一は薫の表情を見やってから、続きを書いた。

『長いこと一人の時間が無かったんだ 
 何も言わずに消えたりはしない 金のこともあるだろ 必ず返す
 お前の今の住所と連絡先を教えてくれ 気が済んだら そっちに行くから そう長くかからないはずだ』

「お前の長くと、俺の長くは違う。具体的な期間を言え。」

 壮一は、目元に手をやってしばらく考えるような素振りをし、指を2本立て、また書いた。

『2週間だ もう1週間 延泊手続きをして 俺はここに泊る
 心配なら 都度 ホテルに 俺が泊ったままかどうか 聞いてくれ 別に買収したりはしないから
 そんな無駄遣いできる金もないしな それで 部屋には 入らないでくれ』

「わかった。それでいい。」

 壮一は、頷きながら微笑んで、また続きを書き、書き終えてから、最後の1行を黒く塗り潰すような仕草をした。

『お前 最近自分の顔を マトモに鏡で見たか? 
 俺より ずっと 酷いよ
 俺の世話はもういいから お前も もう 休めよ 
 ■■■■■■■■■』

 薫は、彼と別れる前、最後に見た壮一の横顔、何か言おうとしていた口元を目の前の壮一に重ねた。
 味のしない朝食を口に運び続けた。珈琲の苦みだけが舌をまともに刺激した。会話は無い。目の前の男が発声できないのだから、1人で一方的にしゃべっているようになるのが嫌だ。
 何とか最後の一片の脂っこいベーコンを飲み下し、席を立ったと同時に一つ思いついた。

「出ていく前に、お前に買って来たいものがあるから、もう一度立ち寄って良いか。」

 壮一は、薫を見上げて右手でOKマークを作った。彼が指でその形を作ると、どうしても淫猥に見える。

 薫はホテルを出、目当ての店を見つけ散策し、一時間後に戻ってきた。テーブルの上は片付けられ、壮一はベッドの上で目を開いたまま横臥していたが、薫と目が合うと今度は体を起こした。薫は手に抱えていた大きな紙袋をベッドの上に投げ置いた。投げた拍子に中身の一部がベッドの上に転がり出た。紙袋の中身は全て本だった。

「こんなところでお前が一人で何する気かしらねぇけど、どうせ暇だろ。」

 壮一は紙袋から一冊ずつ丁寧に本を取り出し、表紙を眺め中を幾らか捲り、真剣なまなざしで確認していく。それを薫は黙って眺めていた。全ての本を点検し終えて、壮一はメモ帳に言葉を書き込んだ。

『いい お前にしては 悪くない選書だ 俺の教育の賜物だな!』
「金の時と違ってありがとうはないんだな。」
 壮一は曖昧な笑みを浮かべて、それ以上何も書かず、メモ帳を投げ出すと、代わりにベッドにうつ伏せに寝転がりながら、薫の買ってきた本を読み始めた。こうなるともう動かないだろう。
「じゃあ俺は行くよ。羽を伸ばしてな。」

 10日の間に2度、ホテルに電話をかけた。ホテルの人間は彼が滞在中であることを返答した。

 それにしても、だ。薫は、彼を取り戻し、共に明かした一夜と翌朝の出来事を繰り返し思い出していた。1日目の夜、彼は顔を見せなかった。しかし、翌朝の彼の調子は声が出ないことを除けば、以前とほとんど変わらなかった。その時は安心したものの、あまりに普通過ぎて、不自然、元気すぎやしなかっただろうか。空元気を出して迎えていたのだしたら、しばらく一人になりたいのもわからなくはない。何年もの間、異常な暮らしをしていたのだ。普通で居られるわけがない。彼の過去の暮らしについて、薫は追求したくなく、知りたくも無かった。それは、彼と向き合うことを避けていることになるだろうか。同じ過ちは繰り返したくない。もう2度と。

 彼と別れて13日目の夜。その日も終電には間に合わず、薫はタクシーでマンションに乗りつけた。
 満月だった。満月の光が、マンションの前の植え込みに屈みこんでいる者の影を長く伸ばしていた。

「壮一?」

 人影が蠢いた。ボストンバックを手に壮一は屈みこんでいた身体を起こし、立ち上がった。

「おかえり。」
 声を取り戻し、目の前に立った彼は、まったく以前の彼の姿のままで薫の前に立っていた。
 夢のようで現実感が無い。
「……ただいま……」
 言うべき言葉が、逆のような気がした。壮一は気にしない様子で、薫の横に密着するように並んだ。

「いつもこんなに遅いのかよ。待ちくたびれた。」
 カードキーを差し込み、二人並んで中に入る。
「聞こえてるか?」
「ああ……でも、仕事は、しばらく休むことにしたよ。」

 今、そう決めた。休むといったが事情の言えない長期の休みなど許してもらえないだろう。そのまま辞めてしまって、壮一を養うにしても1年はそのまま居られるほどの貯えもある。勤め先も選ばなければある。経歴も悪くない。適当な弁護士事務所でもとってくれるだろう。それに、今の仕事を続けてると彼といる時間が無い。それが一番の問題だ。

「そうか。俺はもう明日から出るぜ。」
 エレベーターが上昇していく。壮一は「凄いとこ住んでるな」と笑った。薫は耳を疑い、反応に遅れた。
「明日から出るって……?」
「日雇いのバイトをするんだ。一刻も早くお前に金を返す必要があるからな。」
 バイトと聞いて、あのビルの中で見た淫靡な姿で舞台に立つ壮一の姿が浮かんだ。
「何のバイトだ。」
「肉体労働だよ。身体がなまってるから、しばらくそういうことをして過ごそうと思うんだ。工事現場とか交通整理とか、所謂土方仕事だな。」
「もう少しくらい休んでからでもいいじゃないか、それに、そんな仕事お前には」
「およそ2週間休んだ。それで十分。」

 壮一の口調には以前と変わらない有無を言わせないものがあり、それ以上何も言えなかった。部屋に上がり、彼はボストンバックをソファの上に放り投げて、薫の部屋の中を散策し始め、だらだらと感想を言い始める。ただ久しぶりに遊びに来た友人のように。自然な不自然。
 
 薫は生返事を繰り返しながら、まだ夢の中に居るようにして立ちすくんだまま壮一を見ていた。
 まただ、また語るべきことを語れない。自分達はただ単に久しぶりに再会したわけではないのだ。道を別れて、この数年間、何があったのか、どうしてあそこにいたのか、何故…。
 本当は聞きたいことで溢れるのに、一つも聞けない。本人が自分で言いだすまで待っているべきだろうか。

「風呂、先に借りて良いか。」
 一通り散策を終えた彼は服に手をかけながら言った。壮一は一緒に入りたがることが多かったから、誘われるのを待っていた薫だった。

 壮一は含み笑いをして「お前が今何考えてるか、俺には手に取るようにわかるぜ。」と言ってシャツを剥ぐようにして、床に勢いよく投げ捨てた。その身体を見て薫は息をのんだ。以前より痩せた身体のいたるところにガーゼや包帯が当てられて皮膚がまだらに赤みを帯びていたからだった。
 憐れみと同時に、痛々しい、包帯塗れの痛めつけられた壮一を見ている内に、薫の中によからぬ欲望の萌芽がまた始まっていた。理性と言うものが薄まっていく。

「400万、もう半分以上使っちまったよ。それにまだ追加でかかるってよ。意外にかかるんだなレーザー治療や整形手術って。ああ……もう、そこら中、刺青や何やらをいれてたんだよ、前の人間の趣味でね。それをさっぱり消してきた。全てな。嫌だろ、見るの。」
「じゃあ、2週間の間、お前は病院を回っていたというのか。」
「そうだ、とにかく奇麗に一切消してくれるところを探して回ってたんだ。普通のところだと完全には消えない。闇に近いところでやった。それにしても、ぼったくりだぜ、まったく。赤みは半年か1年くらい残るらしいが、包帯は1か月もすればとれる。そうしたら……」

 壮一は下半身に身に着けていた衣服も取り払い、包帯に塗れた全裸体を薫の目の前に晒し、左手を腰に当て右腕を拡げた。

「また、以前のように、毎日獣のように戯れて暮らそうじゃないか。今度はちゃんと。俺なりに先の事を考えている。ふふ……なんだ?飢えた顔して。だったら、1か月後が愉しみだね。家の中じゃ常に裸で居てやろうか?お前の奴隷として。」
「よせよ……」
「ふん、口で何言ったって俺の身体を見て、すっかり勃ってるじゃないかお前。」

 言われて下半身を見ると薫の股間はテントを張っており、どくどくと漲りを感じた。
 壮一は裸のまま、馬鹿にしたような目で薫を眺めていた。

「でも駄目だぜ今は!まだ身体が治ってないんだ、から、な……」

 赤く膨らみ屹立した雄々しい立像。それは薫だけでなく、裸の壮一身体の上でも、華咲くようにして、反り勃ち始めていたのだった。壮一は自らの下半身を見、隠しだてるようにして握ったはいいが、手の中で余計に大きくなってしまい濡れた先端が飛び出充血した亀頭が隠せない。壮一は動揺した目つきで自分の肉棒と目の前に佇む役人姿に身をやつした男を交互に見始めた。

「はァ……っ、はァ……だめだ、やばい……」

 壮一は、軽く身体を前に折るような姿勢をとった。一度臥せった頭があがり、瞳は、薫をじっとり眺めて、手が上下にしこしこと動き始め、殺しきれない息が漏れ始め空気を艶めかしく揺らしていた。薫は、ゆっくりと目の前の全裸の男との距離を埋め、手首を握って、そのピストン運動をを止めさせようとした。最初こそ、力が拮抗するが、今の壮一では薫をふりほどくことはできず、動きが止められる。

「う゛う……っ」

 薫が手首を一層強く握ると、壮一の手は緩んで、肉棒から離れた。包帯のまかれた太腿の間に反り立った雄が薫の前に丸出しに晒され、薫は、壮一の代わりに太い彼の恥棒を握りたてて、壮一に顔を近づけた。

「そうだな、確かにお前の言う通りだ。うん、1か月は安静にすべきだろうよ。身体が治ってないんだからナァ。」
「自分でしごくのは、ノーカンだろっ、見せてやるんだから、ァ゛!!」

 壮一はもがいたが、強く雄を握られ、そのまま親指で先端をこねくりまわされる。
「#見せてやるんだから?#、馬鹿か?何で俺が、お前が俺見て勝手にシコってんのを見てやらなきゃいけねぇんだよ。」
 壮一は薫の手で弄ばれる自分の下半身を見て、のけ反らんばかりになるのを踏ん張って耐え、そのまま目だけを恨みがましく薫の方へ向け、喉の底から唸り声を上げた。

「ぁぁぁ゛……!」
「大体、ノーカンなわけねぇだろ、駄目だね、大事なお身体に障るだろう?1か月ねぇ……自分で言っておいて、目の前で発情し始めるんだからお前の淫乱具合には相変わらず驚かされる。まるで変ってねぇ、いや、もっと酷くなったかね。俺がいねぇ間によ!!……1か月か、期間までまるで#あの時__・__#の再現みたいじゃねぇか。ああ、そうか、わかったぞ、また俺に管理してほしいんだな。素直じゃないんだから。まだ大事に持ってるんだぜ、アレ。」

 2人の脳裏に同じものが浮かび、記憶がありありとよみがえり、壮一の全身を発火させた。皮膚の上の斑の赤が一層激しく燃え盛った。

 貞操帯を嵌められてから、壮一は薫の家に何度も通い、懇願し、誘い、プライドを捨てて土下座さえしたのに、一蹴にされ、口論になった日には、尻穴の方にまで嵌められるアタッチメントをつけられ、帰らされ、次の排便までそのままにされた。その際も、屈辱的で卑猥な方法で懇願させられる羽目になり、目の前で粗相するよう要求され、そこまでしても、それでも「男同士の約束を破るのか?そんなことお前にできるはずないよな。」と、一滴の精液も出させてもらえず、与えられもせず、狂いそうになっていた。試合の2週間前になって、ロッカールームで彼に熱い身をこすりつけ密着するように隣に座り、抜いてやるから外してくれよォ……と媚びると、立ち上がった彼に、リングの上に呼び出され、皆の見ている前で予定とは違う戦闘スタイルで思い切り叩きのめされ、叩きつけられた肉体がリングの上を跳ね、軽い脳震盪を起こした。余計に、欲情させられた。そんなことを繰り返した、1か月の間のことだ。

「い、厭だっ……あれはっ、もう、……」
 言いながらも、壮一は身体全体を欲情させていた。
「俺の手の中でお前のモノはこんなに悦んでるっていうのに?」
「ぁぁっ……、よせ……っ、やめろ……っ」

 口で言うのと反対に壮一の一物は薫の中で湿り、手に吸い付き、身体をがくがくと震わせた。薫はパッと手を開き、粘液にそぞろ濡れた手を壮一の太ももの包帯の上にこすり付けて拭いた。薫は壮一の物欲しそうな視線を感じたが、無視して俯いたまま「お風呂に入るんじゃねぇのォ?」と大きな男根に向かって話しかけた。

「はぁ……はぁ……」

 男根が膨張するだけで、返答しないように、壮一ももう言葉を失ってただ呼吸するだけの体であった。

「全っ然っ、収まらねぇじゃねぇかよ、壮一!そんなに興奮しちまったら、身体に悪いんじゃねぇのかよォ!まったくいつまでも馬鹿な奴だ。俺が戻ってくるまで、そこでそのまま突っ立ってろ、動くなよ。一歩たりとも。もちろん少しでも自分の手でしごいたりしたら、どうなるかわかってるよな……。そうだ、手を後ろに回して軍隊の一員よろしく立ってろ。そのどうしようもねぇ役立たずのブツが俺によく見えるようにな。ああ、もし俺が戻ってくるまでに収めることが出来たら、そのまま風呂行っていいぞ。入りたいんだよな、風呂に。」

 薫が道具を手に戻る。壮一は言われた通り後ろに手を回して俯きがちに立っていた。勃たせたまま。

「収められなかったか、まあ、そうだろうな。お前には無理だよ。」

 薫は、彼から数歩離れたところから、壮一の様子を眺める。びくと何度か壮一の雄が脈打った。薫は手元で縄を解きながら壮一に少しずつ近づき、壮一の身体に正面から密着した。熱かった。彼の鼓動を直接心臓で感じる。薫の心臓の動く速さが、少しずつ壮一の速さにシンクロしていく。壮一に腕を回し、そのまま抱くようにして、後ろで組まれた両手首を束ねた。久しぶりに縄を扱ったが、縄の扱いは身体が覚えていて、手元を見なくても、苦も無く器用に結ぶことができた。壮一の吐息が薫の耳元を擽った。手首を束ねた根元から伸びる長い縄が床を垂れた。

 薫は壮一の熱い身体から、身を離し壮一の背後の壁の方へ回り込んで、一準備した。それから床に垂れた縄を拾い、壮一の股の間に通して、縄の端は握ったまま、壮一の全身を舐めるように見、最後に雄に視線を止め、縄を引いた。

「今、どうなってる?」
「なにが……、」
 薫は壮一に近寄り、振りかぶった腕を、途中で半分に手加減して壮一の頬を打った。
「ぁ……っ」
「しばらく会わねぇうちに腑抜けてんじゃねぇ。わかるだろ。わからねぇか?だったら今日はもう終わりだ。」
 壮一の瞳の奥がとろけるように震え、縄が軋む音がする。壮一の唇が震えながら小さく開いた。
「……大きく、なって、……今のでもっと、破裂しそう、です、……だしたいよ、薫、っ、だしたいです…‥」
「後ろは?」
「え」
 今度はもっと大きな音を立てて、壮一の頬が打たれ、頭が横を向いて、濡れた視線が先に薫の方へ戻ってくる。
「てめぇが散々俺以外のブツを咥え込んできた穢ぇマンコの具合を聞いてるんだ。」
 ゆっくり頭がうなだれながら前に戻ってきて、壮一は上目づかって薫の目を覗き込んで、小さな声でぶつぶつ言っていたが、その声がだんだんとしっかりした言葉になって、薫に解答する。
「ぐ……、ぁぁ…‥じんじんする……、熱いよ薫、たまらない、‥‥‥薫様のが、欲しくて、たまらな」
「あ、そう。じゃあそのまま俺を見たまま、後ろへ下がってみろ、壁の方へ。」
 壮一がすり足に背後に後退するとちょうどケツの位置に何か冷たい物が辺り、硬いゴムの感触が、尻を擦った。
「……、……」
「そこに用意しておいてやったから、それで済ませ、とっとと出せ。ほら、はやくやれよ。出したいんだろ。」

 壁には貼り付けられるタイプのディルドがそそり立っており、丁度壮一が尻を押し開き、腰を押し当てれば、アナルを犯す位置ぴったりに冷たいローションたっぷりにたっている。壮一は唇を噛み、後ろ手を縛られた不安定な姿勢のまま身体を前に倒しながら、薫の代わりを自分の中にゆっくり、ゆっくりと、おさめていった。
「ん゛……んん……ッ」
 声が漏れ、薫の方を見れば彼の衣服に包まれた下半身がすぐ目の前に在った。そこに在る者を想像しながら、壮一は腰を、一定の間隔で壁に向かって押し当てるが、バランスがとりづらいのと恥ずかしいので、動きがぎこちなく、ゆるゆるとした刺激が肉筒の中を行きつ戻りつをもどかしく繰り返す。

「あはぁ……はぁ……ぅ…‥っ」
「おっせぇなぁ、あんな太いのすぐさま飲み込める位のガバマンのくせして、なんでもっとしっかり動けねぇんだよ。そんな怠惰な様子じゃお前を犯してやる気も起きないね。受身は嫌いだ。ジジイのところで受身のつっまんねぇ~クソみてぇなセックスばっかりして、なまったんじゃねぇか?……そんな奴、いらないね。」
「ァぁ゛……っ、ぁぁ‥‥」
 バランスもとれず、病み上がりの壮一の身体が、必死になって動くががくがく震えていた。
「なまりやがって、仕方ねぇな、特別に支えてやるから死ぬほど感謝しな。」

 薫の両手が壮一の喉元を掬う様にして支えた。食い込んだ指のせいで、壮一の頭への血の巡りが悪くなり、熱くなった顔が、薫の股間の位置に押し付けられた。壮一は深く息を吸い込んだ。吸い込むほど溺れ、頭が悪くなり、臭いを感じ、全てを感じた。
 いつの間にか目の前の薫のベルトが緩められて釦が外され、壮一は口と舌とで、器用に目の前のチャックを降し、黒く滑らかな下着を降し、一物を晒させた。それから背面を犯されている感触、喉元に薫の指の感触を震える身体で敏感に感じながら、薫を仰ぎ見た。霞む視界の向こう側に、獣の瞳が光って笑っていた。

「まだ支えが足りないのか?」
「ぁあ…‥ッ、足りない゛……足りないよ……」
「わかったよ。もう一本足してやろう。」

 口内に薫の雄が勢いよく滑り込んで来て喉奥まで塞がれた。前後から突き挿され、手、肉棒で喉を支えられてバランスの取れた身体は、最初より随分体力を削られているにもかかわらず、欲情の力が、壮一の身体をトリップ、前後運動させた。壮一は、身体を濡らして、全身でわなないた。前後から突きさされる度、薫に抱えられた頭の中で記憶が色づいて、匂いまで、壮一の中に鮮やかに咲きよみがえり、数年間の暗黒の記憶が全て吹っ飛んでいく。

「ん゛……っ、ん゛…っ、ふ……っ、ぐ…」
 一突きごとに声が漏れ出、身体は奥からふやけ、頭の中に光が舞い踊った。
「ん゛ん゛ん゛ん゛……っ、ぉ……゛」
 薫の支配の元、床へと、射精した。それでも収まらない。もっと出したい、出したい、出して身体中の穢れた膿を、全部全部、出してしまいたい。全部薫以外のすべてのものを、外に出して、奇麗にしてしまいたい。

 そのためには、もっと、薫の心の中へ、侵食しなければ…‥まだ、足りない……

 口内に熱い物が流れ込んでくる。しかしそれは精液ではなく、尿だった。壮一は自分の呼吸を上手く扱いその全てを滑らかな舌と喉の奥で受け止め、たったの一滴も零さず、身体の中に納めた。薫のモノが引いていく。壮一はあわせるようにして、腰を引いて、自分の中に突き刺さっていたディルドから逃れ、地面にひれ伏して床を舐めていた。彼の家で勝手に出したものを奇麗にする習慣だ。

 薫の視線を感じる。収まっていたものがまた勃起の気配、駄目だ、耐えろ、と、かつての薫以外の男達のことを思い出すことで自分を無理やり萎えさせ、すっかり自分の精液を舐め終えてから身体を起こした。立ちすくむ彼の前に後ろ手を縛られたまま正座した形になった。縄が視界の済の方で、薫の手に握られたままになっているのを見て壮一は無意識に喘いでいた。そして、彼の足元を見ていた。変わらない、変わっていない。やはりお前は…‥

 薫は縄を持っていない方の手でポケットをまさぐり、あの時の黒い貞操帯を取り出して、壮一の前に屈みこんだ。壮一はうなだれたまま、何も言わず、無理やり萎えさせたペニスにそれが嵌めこまれるのを、震え吐息しながら見降ろしていた。錠の降りる音を聞いたと同時に頭の中で閃光がさく裂し股間に激痛が走っても、嬉しい、嬉しかった。

「来月が愉しみだろう。俺も愉しみだよ。とても。」
 壮一に言葉を返す力はもう残されておらず、代わりに小さな声で啼いた。
「風呂、入って来いよ。」

 薫が縄を解き、責め具を全て片付け、電気のついていない闇の奥にすっかり消えても、しばらくの間壮一は正座の姿勢のまま項垂れていた。息を大きく吸い込み、吐きを繰り返し、気合を入れて立ち上がった。同時に吐息と共に、腰が抜けそうになり、勢いよく壁に手を突いた。どん!と大きな音が鳴ったが、奥から罵声は飛んでこない。
 
 床、自分のいた場所、舐めた場所は濡れたままになっている。
 重い身体を、ひきずるようにして壁に手をつきながら進む、痛む下半身、封印された欲望の根源を感じながら、浴室へ向かった。
 初日から、こんなつもり、無かったのに。

 勢いよく熱いシャワーを頭から被る。俯いた拍子に黒い懐かしい戒めが見える。
 気持ちがいい。気持ちがいい。気持ちが、いい……

「薫、やっぱりお前は、俺の最高傑作だ、もっと、もっと……」

 2人の生活はそのようにして始まった。週に4日から6日、壮一は働きに出て、身体を動かした。時にはかつての薫のように時計が0時を過ぎるほどに働きに働き、体力と筋力を取り戻し、3か月もする頃には、大学時代よりもっと男らしく発達した身体に戻っていった。結局、仕事を辞した薫は、本を読み、空いた時間に料理をするようになった。壮一から勧められた趣味だった。クローゼットの奥に仕舞い込んでいたいた道具の数々が引っ張り出され、追加され、使用され、ありとあらゆることが試され、その後に薫の作った美味しい料理を二人で食べ、行為と料理、互いの肉体について批評し合った。時には二人で格闘技を見に外に出かけた。
 凝ったフランス料理、イタリアン、タンパク質のとれて美味い肉料理が特に多かった。壮一は薫の肉を扱い捌く手つきを見るのが好きだった。
 そうして1年が終わる頃には、壮一の身体に刻まれていた過去の過ちの痕はほとんど消えて、代わりに薫に打擲され罰せられた痕だけが、彼の身体に刻まれ残されるようになっていた。薫はプレイの最中に、過去の過ちをダシにして壮一を責める材料には使ったが、また、それが壮一を悦ばせたが、ことの真相に触れるような話は、どちらから口にすることも無かった。

「そろそろだと思う。」
 2人その日は早めの夕食を終えて、西日の射しこむテーブルで向かい合っていた。
「なんだ?そろそろお前も働けって?」
 壮一は目の前に厚い封筒をおいた。400万だった。
「なんだよ、もう貯めたのか。別に今すぐ返さなくてもいい。」
「いや、受け取ってくれ。もういいんだ。」

 薫は背中に寒い物を感じていた。「そろそろ」「もういい」等の単語から、不吉なことばかり頭をよぎり、薫を以前のように恐れさせた。しかし、双方生活に何一つ不満は無かったはずだ。喧嘩さえほとんどなく、あるとしてもプレイの前哨戦として、敢えて、わざと、戯れている。そんな意味を互いに呼吸するように理解していた。

「何が言いたい。はっきり言えよ。」

 壮一は、珍しく視線をゆらゆらとあたりを漂わせ、言うべき言葉を探っているように見えた。その時間が薫には苦痛でたまらなく、自分の中で何かが固く凝り固まっていくような感覚を覚えた。先を急ぎたく、先に言葉を言いかける口を何度も閉ざし、ただ耐え、待った。壮一の視線がようやく、テーブルの上から薫の手、胸元、首元、顔へと上がっていき、その顔の中に、薫はプレイ中に見せる壮一の淫靡な雰囲気と真剣なまなざしの両方を読み取った。

「やっぱり、もう、我慢ができない。」
 壮一の声は震えて、目は乾いて、徐々に大きく見開かれていった。狂気の光が射した。
「……、……」
「今、俺の身体は、俺の人生の中で一番良い状態と言える。」
「……、……」
「これから先、老いていく中で今の状態を保ったままというわけにはいかない。」
「……、……」
「お前は、俺と違って美しく老いていくだろう。それが見られないのは残念だが、」
「もう言うな。それ以上、先を」

「お前の手で殺されたい。今直ぐとは言わない、準備期間は設ける。以前の俺は、焦りすぎてお前を逃した。計画もしっかりたて、やりたい。もし、それが叶わないなら、お前が断るなら、俺は自ら、前居た場所に戻る。そして、雑な方法で、見世物になってでも、お前の目の前で殺してもらう。俺を弄繰り回して悦ぶ連中は腐る程居るし、一番見るのを嫌がるだろうお前を、連れていく、お前にも、無理にでも、俺がお前以外の、醜い他人の手の中で無様に弄ばれ死んでいく俺の様子を、一番いい席で目の前に見せてやる!事後の姿も見てもらう!俺には、そういうことができる……。そうやって俺に応じなかったお前を苦しめることができる……コネがあるからな……。」

 壮一は歪な笑みを見せた。コネ、以前の男、Y達の事だろう。

「脅してるつもりか。」

 薫は、意外にも大きく動揺しない自分に驚いていた。薫の無意識は彼か、もしくは"自分"が、この件を持ち出すことを知っていたようだった。

「そうさ、脅しだよ、薫。これはれっきとした脅しなのさ。俺自身を人質にとって、俺は君を脅している。」

 壮一の顔が酷く穏やかになり、笑み、今度は優しく諭すように続けた。

「俺の中身が、どれほど穢く醜いか、お前にならわかるだろう。」
「……今のままじゃ、駄目なのか。不満があるのなら」

「一つも無い。あるわけがないだろ!今俺は幸せだ。この、どうしようもない人生の中で今が一番幸福なんだ!だからこそ、今なんだ。それにお前からも感じ続けている。」

 壮一は目を細めて親し気に薫を眺めた。

「ずっと、初めて会った時から、俺と逆で同時に同じモノを。そして、お前ももう我慢ができない段階まで来ているのは、わかってる。大学の時、一度すぐそこまで一緒に昇っていったのだから。お前が、本当のお前をまた、無理やり眠らせようとしているのを感じる。そうしたらどうなる?同じことの繰り返しになる。でも、お前はもう俺の元から逃げない、できないはずだ。1年かけて、こんなにも愛し合ったのだから。それに、次俺を逃がしたら、俺がどこへ行くか、俺はお前に今、はっきり宣言した。それから、俺が死んでも心配する者はこの世にお前を除いて一人たりともいない。だから、事後の処理のことはそれほど心配しなくていい。それに準備する間、どうするか一緒に考えておくのはもちろんのことだ。薫、俺は孤児なんだよ。そう言えばお前とは家族の話さえ、してなかったっけ。俺には、親戚も兄弟も無いんだ。仕事だって転々として、俺を覚えている者なんてお前以外、この世に1人もいないのさ。大学の奴らにも卒業以来誰とも会っていない。思い出の中の一人のとるに足らない人間に過ぎない。」

 薫は、見飽きる程見た壮一の顔を眺めながら、呟いた。

「……どうやって生きればいい。」
「……なに」

「俺だって考えなかったわけじゃない、いや、いつも考えていた。気が狂いそうだった。でも、思いとどまる理由は結局一つ、これに尽きる。お前が居なくなった世界で、どうやって生きていけばいいっていうんだ?お前は良いだろう、絶頂の中、終われるのだから。でも俺はそうじゃない。絶頂の後の虚しさの中でも、生き続けなきゃいけない。そのことを少しでも、考えたことがあるか。」

 壮一は、一度目を伏せ落ち着いた澄んだ瞳を薫に向けた。

「薫、何故俺がお前の趣味のひとつに料理を勧めたのか、わかるか?」
 
 薫は、その一言で全てを理解した。呼吸するより簡単なことだ。

「ああ……、今の言葉でわかった。よーくわかったよ、お前が本当に穢い、最悪の人間だと。」
「流石私の薫様、理解がお早いことで……」
「お前の肉を調理して食えというんだろ。ははあ、糞になって出るだけだぜ。夢見てんなよ馬鹿が。」

「そうだ、その位わかってるさ。でも少しくらいは血肉としてお前の中を循環して染み渡り、残るだろうし、俺達は一瞬でも、真の意味で一つになる。それを思うと興奮して仕方がない。ああ、結局また俺の話になっちまった。まあいい、それから俺はこの肉以外に、魂と言うものを少し信じている。民俗学の話、いや宗教かな、部族の供儀には、相手を食って、それは親しい物であったり、一番倒すのに苦労した敵であったりするが、食うことでその力を得るというものも多い。それから、俺が居なくなったとしても、お前は俺に会えなくなるわけでもない。」

 薫は鼻で笑って、首をかしげた。

「なんだ、カニバリズム、宗教の話をしたかと思えば、今度はオカルトか。やれやれだな。」

「俺が今の、本当のお前を作ったように、お前がもう一度、いや、何度でも、理想の俺を作ればいいのさ。そうして殺したくなったら、また殺したらいい。今、始めたら、お前の自由を束縛するものはもう、この世界には何一つなくなるんだよ。お前の中の獣は、苦しんでいる。解放してやろう。自由になれ、薫。そうだな……、俺に唯一心残りがあるとすれば、完全に自由になったお前を、感じられなくなること、この目で見られないことだ。」

 壮一の手が薫の手の方に伸びて、ひとつに重なった。

「1か月後、俺達にはそれが一番良いな。」


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