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祖父の日記(サバン島抑留)036   亡者・天の与えた休養・待望の雨・食事

亡者 七月十二日

腹痛もうすらいだのでキャンプ外作業に出る。サバン島北端の高所を拓いて日本海軍が大型飛行機の発着場を設定していた。建物も当時の其で、滑走路のコンクリートが白く長々と続いている。此の滑走路を造る時、まだセメントを流した許りの柔らかい上へ日蔽いとして懸けた椰子の葉の跡がクッキリと残っていた。 
此の飛行場の作業は鎌と鍬で草を除くことだった。驚いたことには此の鎌や鍬とは名ばかりで、鎌は木の先端に鉄片のついたもの、 刃など全然なく、鍬は先がカンナ屑の様にめくれていた。 
どうしての様なもので草を刈るのか不思議な思いがした。ところが監視兵はその鎌で草を刈れという。又此の鍬で草の根を削れという。之は草刈の仕事ではなく、我々日本人を苦しめる為の所作だった。先のめくれた鍬を振って、地面を叩けば只草の根元から白い土埃りが舞上るだけで、此の馬鹿らしい繰返しを止めると監視兵が走って来て我々を足蹴にした。 
汗と涙を流して一列横隊になりながら、ポンポンと草の根を叩く姿は、地獄に追いやられた亡者の姿そのものだった。

野路菊に祈らむとして目つむれど 
       只めまいする飛行場の原

天の与えた休養 七月十三日

雨が降ると作業は休みだった。印度洋の彼方に雲が湧くと、決った様に此の雲が急速に空を掩って発達し激しい雨となる。地面を叩く雨はまるで水底を想わせて、監視兵も、作業する吾々も、一斉に木蔭や軒下に雨宿りする。空腹と疲れに喘いでいる我々にとって此の雨は、天の与えた休養であり、心の暗さまで洗い流して呉れる清涼剤でもあった。 
 
雨雲の動きに今日も噂して
       苦役の休み待ちのぞみたり

待望の雨  七月十四日

豪雨が襲来した。
キャンプの屋根を叩く音、屋根から滝を為して落ちて来る雨水は、
庇から軒下まで白い帯の様だ。そして地べたへ届くと渦巻く様に水が湧き立って飛沫が四散し、部室の高い板囲いを越えてアンペラの上に濡れ落ちた。 即ち待望の雨なのだ。此の凄まじい程の雨が続く限り、作業は一時休止となる。部屋の中でうずくまっている吾々は、此の雨の為苦役から僅かでも逃れることが出来るので全く蘇生の思いがし、此の雨の止まずにつづいてくれと心の中で祈った。 

しぶき迄家に入ればめざめけり
       直暗き部室の隅にいねれど 
雨降ればぬかるみの海となりにけり
       われらの住めるブラックキャンプは

食事 七月十六日

昨日の豪雨でキャンプ内の広場が溜水で一杯になったので、今日の作業は朝から砂運搬である。 砂は海岸から手製のモッコでキャンブ迄運び、盛土して凹所を埋めた。 
二人ずつ組んで一列縦隊となりゾロゾロと続く裸の列は、原始的な作業とは謂い乍ら何百米も続き、昔築城で多数の人夫が労役に服する姿を再現すれば斯様であろうかと想像した。 
それにしても皆の足取りは重く、モッコの中の砂の量が随分と少ない。海岸からキャンプ迄約二軒近い道程を幾回も幾回も往復した。最近満腹したことのない吾々は、此の砂運搬の作業の苦しくて、砂の量を定量にする元気もない。幸い監視兵の目も届かないので、形許りの作業だった。 
途中、道傍に生えているヒユの葉を摘んでこの砂の中にかくし、キャンプ内に持込んで夕食の足しにした。又、海から水筒に海水を持込んで、塩を造る準備をした。
玆のキャンプは英軍のキャンプと異り設備不足で、物資も貧弱で少なく、その上摂取するカロリー量も不足である。キャンプに勤務するオランダ人も妻帯者が多く、その生活程度も低い。物資の不足は日本許りでなくオランダも深刻らしい。特に此の離島サバンもその例外ではない様だ。 
我々の主食は米ではなく乾燥ジャガイモが主で、之に乾燥野菜を混合しての粥だった。だから食事当番の者は食糧分配の時、粥の中身を掬って最初器物に入れ、次に汁を等分にして平均をとり公平なやり方をした。 
自分等の部屋の食事係りは庄司大尉だ。彼は手製のビンロウ樹のスプーンで、先ず粥の底の中身を掬い上げて飯盒に分け、スプーンをその中にさして目盛りをつけ、その上に汁を等分に入れてくれる。粥は口に入れても歯に当るものは殆どなく、スルスルとただ咽喉を通るのみだ。それでもキャンプでは、もっと満腹感を与える為に、タピオカの粉を混ぜての固さを増す様、炊事係は苦心した。 
又、時々粉ミルクの配給があった。ドラム缶を屋外に据えて、粉ミルクを此中で溶かして分配した。此の配給は何よりも嬉しく、呑むのを惜しむ様に時間をかけて楽しみながらのんだ。 
勿論、此の粉ミルクも乾燥ジャガ薯も、乾燥野菜も米国の製品である。

砂運ぶわが足音に蟹逃げて
       波先のた砂にひろがる


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