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『天気の子』は、『ライ麦畑でつかまえて』と観ると2倍楽しめるし、評価も180度変わるよねという話


あの夏の日。
あの空の上で私達は、世界の形を決定的に、変えてしまったんだ
--『天気の子より』


『天気の子』は、サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』に極めて大きな影響を受けた作品で、「抑圧される純粋な願い」や「少年と社会の対立」を両作品とも描いています。

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その証拠として、主人公の帆高が、唯一持っている本の『The Catcher in the Rye(邦題:ライ麦畑でつかまえて)』が、序盤で数秒映ります。(なお、考察用に、引用の範囲内で作品内の画像を以降使います)

この数秒で、作品のおおよその方向性が予告されています。

このようなテーマや方向性は、常日頃から心の抑圧やメンタルヘルスについて考えている身としては、語らずにいられないテーマです。

それに加えて、このテーマを見落とされやすいがゆえに、作品の意図が伝わってないケースも結構あるように感じます。

ということで、地上波初放送のタイミングに合わせて、『天気の子』をより楽しむために、『ライ麦畑でつかまえて』を踏まえつつ、考察&解説をしたいと思います。

(ネタバレを含むのでご注意ください)


『ライ麦畑でつかまえて』はどういう話?

すごくコンパクトに言うと、以下です。

主人公のホールデンが家出&放浪しながら、大人の欺瞞やインチキを否定し、子供の持つ無垢さを肯定した結果、孤立する話

ライ麦畑でつかまえてのタイトルの伏線が回収される箇所を引用します。

僕にはね、広いライ麦の畑やなんかがあってさ、そこで小さな子供たちが、みんなでなんかのゲームをしているとこが目に見えるんだよ。(中略)で、僕はあぶない崖のふちに立ってるんだ。僕のやる仕事はね、誰でも崖から転がり落ちそうになったら、その子をつかまえることなんだ――(中略)ライ麦畑のつかまえ役、そういったものに僕はなりたいんだよ。

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こちらのスライド内のイメージ画像だと上記のような感じ。

では、ライ麦畑の崖から落ちそうになる子をキャッチしたいというのはどういうことか?

私の解釈では、以下です。

純粋な願いを持ってる子供(ライ麦畑にいる子供)が、インチキな大人になる(崖から落ちる)のを止めたい(キャッチしたい)

このホールデンの願いを知ったうえで、『天気の子』を見ると、「ホールデンに相当するのは誰?」「ライ麦畑はなに?」「崖は?」といった観点で見れるので、とても楽しめます。

『天気の子』のライ麦畑(純粋な願い)とは?

天気の子でいう、ライ麦畑、つまり、子供たちの純粋な願いとはなんでしょう?

一番大きい願いは、「ホダカとヒナが一緒にいたい」でしょう。

だから最後、「世界を雨にしてでも一緒にいる」意思決定をします。

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賛否両論の最後の意思決定だが、、、

この意思決定は、世界中に迷惑をかけながら二人の願いを実現することなので、賛否両論が起こりました。

そしてここからは私の解釈ですが、主人公の最後の意思決定は派手ではありますが、

「”大人”や”正しさ”に左右されず、自分たちが純粋に願う世界を作る」

ための意思決定とも言えます。そしてこれこそが、深海誠が表現したかった主人公の姿ではないでしょうか?

その証拠として、主人公たちが”大人”や"正しさ"から逸脱していることが、以下のような場面で何度も強調されます。

・家出少年であること
・ジャンクフード(ゴミのような”異常”な食べ物)を最もおいしいと表現すること
・雨(晴れではない”異常”な天気)が好きなこと
・ホダカが雨の日に、捨て猫(異常)をゴミ捨て場(汚い場所)で拾い、”アメ”と名付ける
・児童相談所で保護されるはずが、子供たちだけで生きているので、警察(正しさ)に追われること
・”通常”のホテルで宿泊できず、ラブホテルの宿泊を余儀なくされること
・銃(異常なもの)を警察(正しさ)の前で使うこと

主人公は、ただ自分の気持に素直に生きているだけです。それこそ「ライ麦畑で遊ぶ子供」のように。

ただこれらの行動は、大人や社会からみたら、”異常”な状態です。そのため、主人公たちは、悩み、苦しみます。”大人”たちによって排除される力が働きます。『ライ麦畑』でいう「崖」が忍び寄ります。

具体的には、警察(正しさの象徴)に追われます。最終盤では、「晴れ(正常)を望む社会」に追い払われます。

ポスターで使われている以下のビジュアル(公式ページより引用)は、世界を晴れにするために、ヒナが隔絶される雲です。(ちなみに、この雲の形、崖っぽくないです?もしかしたら、「ライ麦畑の崖」から影響を受けてるかもしれません)

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これは、異常な存在(ヒナ)を隔絶したり、見えなくすることで「正常」(晴れ)を維持しようとする社会に対する強烈な皮肉と考えられます。

このように、”正しさ”に追われ、主人公と社会は対立します。

しかし最後に主人公があのような意思決定をすることで、そのような”正しさ”の呪縛から解放されます。

”大人”や”正しさ”に左右されず、自分たちが純粋に願う世界を作る』をつくるわけです。


そして事実として、以下のインタビューでもこのように新海監督は応えています。

『僕がこの映画の中で見たかったのは、悩むよりも「自分たちは次の世界に行くよ」って軽やかに飛びこえる若者たちの姿です。』

雨を降らせ続けるのが引っかかる人が多いでしょうが、ぶっちゃけ、雨を降らせることの是非とかどうでもいいです。あくまでも雨は、「自分たちが願う世界」の象徴でしかないです。大事なのは、「次の世界に行くよ」という意志です。

上記のようなことを踏まえた上で『天気の子』を見ると、とても楽しめます。↑の予告も違った味わいがあります。

皆様の心のなかにいるのは、ホダカか、ヒナか、ホールデンですか?
はたまた、スガですか?

皆様にとっての、ライ麦畑や雨は何ですか?

ヒナのように、自分のために祈らず、社会を晴れにする祈りだけをしてませんか?

是非、ご自身に聞いてみてください。


追加考察: 『ライ麦畑でつかまえて』へのアンサー/ジンテーゼ


『天気の子』がとても面白いのは、『ライ麦畑でつかまえて』の現代版に終止するだけでなく、『ライ麦』のアンサーであり、弁証法で言うジンテーゼに結果的になっていると感じるからでもあります。

『ライ麦』は、以下のテーゼ&アンチテーゼで対立しています

テーゼ:
純粋さを貫きながら生きたい

アンチテーゼ:
社会は、純粋さを貫ける場所ではない。貫くならば、社会から隔絶され孤立する。

このテーゼとアンチテーゼの間でホールデンは葛藤した結果、孤立します。

ホダカとヒナも、このテーゼとアンチテーゼの間で葛藤します。

しかし、ホダカとホールデンが決定的に違うのは、ホダカは世界を変えちまうのです!つまり、以下のようなジンテーゼをホダカは実行します。

ジンテーゼ:
自分の純粋な願いを貫くために、社会と世界を変え、社会を生きる

作中、「ヒナと一緒にいたい」という自分の願いを貫くために、世界を変ええちゃいます。願いを貫けるような世界に変えた、とも言えるかもしれません。この結果、ホールデンと違って、孤立はしません。

私みたいな弱い人間は「あ〜、生きづらい世界だな〜。わかってくれる人いないな〜。」とアンチテーゼで終わりがちです。

しかしホダカは、「俺が生きにくい世界なら、そんな世界変えてやる!!」と次のステージに軽やかに行くのです。

そんなホダカの姿を見て、観客は自分の願いを思い出し、行動する勇気をもらうのです

それこそ、『愛にできることはまだあるかい?』と聞いてみたくなるのです。

『天気の子』はそういう作品だと思います。


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と、こんな感じで、「抑圧される心の願い」みたいなテーマに関しては敏感なので語ってみました。

抑圧されすぎてよくわかんなくなってる人は、参考までに以下も御覧いただけると幸いです。


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村上僚
え、マジっすか、サポートいただけるんですか? え、大感謝以外は、返せないですよ?