170年前の多事多難(1854年)
1月3日(嘉永6年12月5日)
長崎にロシア使節プチャーチンがやってきました。前年夏の来航に引き続き2度目です。前回幕府に提出した、両国間の国境の確定と通商の開始を求めた親書の回答を得るためでした。
前年の親書への回答をプチャーチンが受け取ったのは1月16日、初の交渉(日露会談)が行われたのは1月18日です。日本側は魯西亜応接掛として、大目付筒井正憲、海防係勘定奉行川路聖謨が江戸から派遣され、ロシアと対峙します。長崎奉行は水野忠徳でした。会談は2日おきに計5回。通商は拒否、国境の確定については進展はありませんでした。ただし、幕府は「今後通商を開くときには優先的に貴国と交渉する」という確約を与えました。
プチャーチンが長崎へやってきたのは、シーボルトの助言があったからです。アメリカの日本遠征計画を知り、協力を申し出たもののアメリカに拒絶されたシーボルトでしたが、ロシアは彼にアドバイスを求め、彼の言う通りに長崎へやってきたのでした。外国との初めての交渉が長崎で行われたということは、日本に非常に大きな利点を与えました。オランダ商館長の助言をもらえたからです。国際法やら条約やらの理解がなかった日本人は、当時の商館長(ドンケル・クルチウス)から、外交儀礼を含む、様々なアドバイスを得ることができたからです。また、ロシア船への物資供給にあたっても、オランダ商館はなくてはならない存在でした。
プチャーチンが「通商交渉の優先権」を得たことに満足して長崎を出港したのは2月5日でした。
2月7日(嘉永7年1月11日)
プチャーチンが去った2日後、ペリー艦隊が2度目の来航。3月31日に「日米和親条約」が結ばれました。ペリーは、条約締結地横浜を出港した後、新たに開かれた下田と箱館を検分するために、4月18日には下田、5月17日には箱館を訪れ、6月7日に再び下田へ戻ってきて、ここでも細則を決める交渉が行われました(下田追加条約)。結局ペリーが日本を離れて帰国の途についたのは6月25日でした。
4月20日
プチャーチンのロシア船が長崎へ物資補給のために来航。この時はわずか1週間で日本を離れました。
7月28日
オランダ商船が最新の別段風説書を運んできました。ここには、驚くべき情報が書かれていました。遠く離れたヨーロッパで、トルコとロシアの間で戦争が起こっていることは、幕府は既に知っていましたが、その戦争にイギリスとフランスが参戦し、ロシアと戦争状態に入ったとあります。
この情報は長崎を戦慄させました。数ヶ月前にも来航していたロシア船と、以前より日本に来航していたイギリス船が長崎で戦闘状態にはいる恐れが出てきたからです。もしそんな事態になっても「日本に手の打ちようがない」と、前述の露西亜応接掛は悲痛な声を幕府へ上申しています(出所:「和親条約と日蘭関係/西澤美穂子」P87)。長崎市中でも噂になりました。
9月7日
ついに長崎にイギリスの東インド・中国艦隊司令長官ジェームズ・スターリング率いるイギリス艦隊3隻が長崎へ来航しました。このときの恐怖はいかばかりであったか、容易に想像がつきます。わずか数ヶ月前にもロシア船は長崎へ寄港していましたし、いつまた長崎へやってくるか、もしやってきたら、長崎で戦闘が起こることは必至です。
スターリングの要求は「ロシア軍艦を攻めるために、いくつかの港にはいる権利を認めてほしい」というもの。長崎奉行水野は、取り決めの中で「戦争」色を極力排除し、3月にアメリカと結んだ「和親条約」と同等の権利をイギリスにも認めます。スターリングがイギリスを代表する使節ではなかったため、このときイギリスと取り決めたものは「日英約定」と、「条約」より一段低い扱いでしたが、10月14日に締結されました。
交渉は、文書の交換が基本で、スタリーリングが渡す英語の文章は、クルチウスがオランダ語に訳して通詞に渡し、通詞がそれを和訳。返書は通詞がオランダ語で作成してイギリスへ渡すといった流れです。日英の通詞は、正式な交渉で使えるほどには育っていなかったので、ここにおいてもクルチウスの協力、並びに助言はなくてはならないものでした。
スターリングは、10月20日に長崎を離れますが、出航にあたり「石炭」の補給を長崎奉行へ依頼します。それに対し、国際法上の「中立」ということ、それへの抵触の恐れがあるということをクルチウスが幕府に助言し、「在庫なし」という言い訳でその依頼を断りました。
水野忠徳の正義感覚とバランス
このときの長崎奉行水野忠徳は、優良な官僚であっただけでなく、実に義理堅い好人物だったと思います。水野は、この年の8月に江戸に対し「オランダへもアメリカと同等のものを与えよ」と上申しているのです。これまでみてきた対外交渉だけでなく、内政においては「オランダへの軍艦発注」という大事業をオランダと進めており、「武力を用いたアメリカには屈服し、用いないオランダはそのまま」という「悪評を避けよ」というのが、彼の上申の根幹でした(出所:「徳川の幕末/松浦玲」P32)。
水野のこの上申は江戸で認められ、10月23日、「日英約定」締結後でしたが、クルチウスへ正式にそれが伝えられました。「日米条約の下田箱館開港(寄港許可)を※均霑する」と通知し、「長崎での通商はこれまで通り、それに日米条約均霑が加わるので、約定はなくてもオランダが最も優遇されているのだと念を押した(出所:「松浦同書」P35)」といいます。
陰日向に日本に多大な援助を与えたオランダへの、水野の恩返しだったと思います。
※均霑:平等に利益、恩恵を受けること、また、与えること。
タイトル画像:ヤン・ドンケル・クルチウス
終わり