5-7.身構える幕府
イギリスへの恐怖
幕府は、オランダからの風説書、ならびに清国商人からの情報によって、戦争の経過、顛末、そして清が締結した欧米諸国との条約の中身も最終的に正確に把握することができていました。陸上の戦闘では清が優位に立つこともあったが、海軍力ではまったく歯が立たず、海路を封鎖されてしまえば清は降参せざるを得ないことも幕府は簡単に予想できたのです。そして、我が身に置き換えてみると、海軍力を持たない日本も当然同じこととなると考え、恐れました。
また、相手国がイギリスだということも、幕府により逼迫した恐怖を与えました。数年前(1837年)のモリソン号事件を、それがイギリス船だと認識していたため、イギリス艦隊がアヘン戦争の余勢をかって、報復にくるのではないかとも恐れたのです。
西洋砲術のデモンストレーション
1841年に高島秋帆が、西洋砲術の試射、並びにデモンストレーションを武蔵国徳丸が原(高島秋帆が演習を行なった地として、東京都板橋区高島平の地名として残る)にて行いました。高島秋帆は、長崎奉行所の砲術師範であり、私財を投じてオランダから最新式のゲベール銃や、各種の大砲とその砲弾をオランダ経由で購入し、軍事学校を開いて各藩から派遣された藩士を受け入れていました。高島は、アヘン戦争の経過を知り、2回に渡り幕府へ洋式兵術の採用について建議し、これが、幕府に取り入れられて、そのお披露目になったわけです。
兵士の訓練もすべてオランダ流です。門下生129名が、砲兵の射撃と運動、小銃射撃や突撃動作などのオランダ式訓練を、幕府の前で披露しましたが、特に大砲の射撃では、実弾ではなく空砲を使用したこと、訓練された兵士が横隊隊形で一斉に射撃、突撃するといった戦法が、個々の戦意を重要視し、白兵散開を得意とする武士にとって「児戯に等しい」とまで酷評され、全面的な採用とはなりませんでした。
全面的な採用とはならなかったものの、秋帆自身は砲術の専門家として重用され、その砲術は幕命により、江川英龍らにも伝えられ、全国にその門下生は増えていきます。
(秋帆は翌年の1842年に長崎における不始末という理由で、家は断絶の上、投獄されてしまいます。讒訴が原因といわれています。彼はペリー来航後に赦免、出獄し、再び砲術の専門家として幕府に重用されることになります。)
西洋式への変換をはかった薩摩・佐賀
一方、薩摩藩は、高島秋帆に同じ演習を薩摩領内で実施させ、今度は実弾を使用してのものでしたが、同藩は全藩を挙げて西洋式の採用を決め、大砲の製造にまでとりかかることになります(出所:「兵器と戦術の世界史/金子常規」P110)。特に、同藩では藩主島津斉興の長男、斉彬による奨励もあり、藩士(郷士含む)全員が、洋式兵術に拒否反応をおこさず、積極的に受け入れています。1846年には兵器工場を開設します。
フェートン号事件の不始末によって処分されていた佐賀鍋島藩でも、その採用を決め、数年後(1850年)には反射炉をつくって兵器工場をもつまでになります。
旧来のやり方に固執し、西洋式への転換ができなかった幕府に比べ、薩摩・佐賀の転換は早く、その差が後に勝者と敗者を決定づけることになります。
難題だった西洋方式への転換
実は、西洋砲術への転換は非常に大きい難事業でした。単に戦う方法の変更だけではなく、それまでの身分秩序、それに伴う格式、処遇、服装その他に大きな混乱と軋轢を生じさせるからです。1846年には、江戸湾の警備担当だった川越藩の藩主は、立場や格式を離れて砲術を学ぶべしと、奨励とともに意識の変換を促しています(出所:「『蛮社の獄』のすべて/田中弘之」P81)。藩主がそう言わざるを得なかったほどの混乱と軋轢があったとみるべきでしょう。
アヘン戦争後に幕府のとった策
西洋砲術の採用を拒否した幕府の採用した策といえば、これまで近づく異国船はとにかく打ち払えだった「無二念打払令」を、異国船が望むものを渡して帰ってもらえという「薪水給与令」へ変換(1842年)、1845年には海防に関するすべての事案をそこで取り扱うよう「海防掛」という部署を新設したのみでした。
外国と戦争になれば必敗する。だから、穏便に扱って帰ってもらおうという「避戦」の策は、否定されるものではありませんが、問題は眼前の問題への「対処」ではなく、これからどうすべきかという「方針」が定まらなかったことでした。当時の内政的には、教科書でも習う「天保の改革」と呼ばれる各種の改革が行われている時期、老中首座は水野忠邦です。その数年前には、「大塩平八郎の乱(1837年)」が起き、幕臣が反乱を起こすなどという前代未聞、驚天動地の出来事が起こったばかり。また、「蛮社の獄(1839年)」とよばれる蘭学者への弾圧事件も起こり、政情は騒然としていました。幕閣内で議論があったのか否か調べきれていません。
タイトル画像出所:板橋区立郷土資料館(https://www.city.itabashi.tokyo.jp/kyodoshiryokan/oshirase/3000585/3000593.html)
続く
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