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7-9.余話として(黒田斉溥、勘定奉行職)

黒田の夢

「7-7.幕府の対応と阿部正弘の苦悩」で阿部正弘に意見書を提出した福岡藩主黒田斉溥なりひろ(のちに改名して「長溥ながひろ」)は、「蘭癖らんぺき」と称された藩主でした。盛んに西洋技術を取り入れ、医学学校の創設や、藩内で蒸気機関の作成までしたほどです。ペリー来航前後は40代前半、彼は明治20年(1887年)まで存命だったので、かなり長命でした。彼は、長崎に海軍伝習所が開かれてオランダ人との交流が盛んになると、オランダの蒸気軍艦にも招かれて「バタヴィアやオランダまでも言ってみたい」と艦長に告げ、幕府にバタヴィアまでの渡航許可願まで出したほどです(結局彼の願いは聞き入れらませんでしたが)。当時のオランダ商館長クルチウス、海軍中佐がファビウスの記録には度々「筑前候」と、彼の名前が出てきます。1857年に第2次教官団の団長として来日したオランダ海軍カッテンディーケの記録にも同様です。

彼の渡航の夢は実現できなかったと思いますが、かつてオランダの軍艦に乗り、長崎湾外まで出て受けた潮風を生涯忘れなかったのではないかと想像しています。

勘定奉行職

今で言えば財務省の事務次官かと思います。主に幕府の財政を司る職掌でした。阿部の創設した海防掛の構成人員は、大小目付、勘定奉行ならびに同吟味役がその大半を占めていました。安政初年(1856年前後)ころまでは、勘定系が中心でした。今で言えば、防衛省内に財務省官僚が多いような状況です。そして前者と後者の勘定系官僚とは常に対立していました。

勘定奉行は、「町奉行」「寺社奉行」と並び、幕府の三奉行とよばれる格の高い奉行職ですが、実力本位でそこまで出世することができたらしい。これは私にとって意外なことでした。

「門閥制度は親の仇」

福沢諭吉の有名な言葉があります。生まれた「家」の格式によって完全に出世の限界が決められていると思っていたからですが、勘定奉行だけは幕府成立間もない頃から、優秀ならば奉行というトップにまで上り詰められといいます。再び現在の例で言い換えるならば、ノンキャリアの国家公務員でも官僚職のトップである事務次官にまでなれたということで、きわめて特異な奉行職でした。

町奉行所の職員、与力や同心からは町奉行へはどうあっても昇進できなかったのに対し、勘定所の職員だけは、実力次第で勘定奉行になれたのです(出所:「勘定奉行の江戸時代/藤田覚」P39)。海防掛は、和親条約締結後に「海防への提言」から「対外政策全般への提言」へと、その任務が変わっていきますが、そうなった時には「自由貿易」を主張する「大小目付系」と従来の「会所貿易(官製の制限貿易)」にこだわる「勘定系」と、対立は続いていくことになります。

この対立は、職掌の違いからだけではなく、出世が約束されたエリートと現場叩き上げとの溝もあったのかもしれないと思っています。

終わり


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