「ゴジラ-1.0」、「特攻」
リアクション
同映画は最近NetFlixで配信が始まり、世界中で配信数ランキングの上位に入っているとのこと。昨年映画館で観た時、実は泣いた。ゴジラ映画で泣くなど思いもよらなかった。よくできたストーリーだと思った。最後のシーン「あなたの戦争は終わりましたか?」というシーンはもちろん、それ以外でもわたしの涙腺を刺激したセリフが多くある。
Youtubeにはそれを観た外国人のリアクション動画が多数あって、それを観て「泣くのは自分だけではないんだ」と、少し安心した。
山崎貴監督
わたしは、彼にとても親近感を感じている。「Allways三丁目の夕日シリーズ」も、彼の作品だと知ってからは特にそうなった。同作では、あの戦争に向き合った一般庶民の、その心の奥底に秘めた思いがふっと滲み出るようなセリフやシーンが随所にある。それが私の琴線に触れるのだ。それは本作でも同様だった。
主人公「敷島」
「敷島の大和心を人問はば 朝日に匂ふ 山桜花」本居宣長
「敷島」「大和」「朝日」「山桜」という4つの言葉は、昭和19年(1944)10月、海軍の特別攻撃隊の4つの部隊名に付けられた。主人公の名前はそこから取られたことに間違いはない。
特攻
この4隊のうち、敷島隊(指揮官含み5機、5名)が出撃する際の様子はニュース映像として、今もYoutubeで見ることができる(神風特別攻撃隊敷島隊で検索してみてください。著作権問題があるかも知れぬと思い、リンクを貼ることは控えた)。この敷島隊が体当たり攻撃をおこない、戦果を挙げた日が10月25日。この日が「特別攻撃隊の初出撃の日」となっている。そして、発表の際にこの「特別攻撃隊」を、「以後『神風特別攻撃隊』と呼称する」として、それが国民に発表された。「KAMIKAZE」はそのまま世界で通用する、今も。
彼らが飛び立った飛行場(フィリピンルソン島にあったマバラカット飛行場)には、かつて現地の人が建立した石碑があった。ピナツボ火山の噴火によって今は火山灰に埋もれている。
3回飛び立ち4回目に体当たり
知っている人は多くはないと思う。実はこの10月25日の前に、彼らは3回飛び立ち、敵艦を発見できずに帰還しているのだ。そして4回目に敵艦発見、体当たりとなった。人間世界に、これ以上の残酷な仕打ちがほかにあるものだろうか。ちょっと言葉にならない。わたしがその任務を果たした彼らの胸中を想像したとして、それが果たして正確なのか。
つぎはぎされたニュース映像
敷島隊の5名は、彼らの命と引き換えに敵空母撃沈1、同大破1、軽巡洋艦撃沈1という、驚くべき成果を挙げた。前述したニュース映像は、大戦果を挙げた「初陣」として、それを国内で戦意高揚に使ったものだ。しかし、実際の記録映像には、それ以前に出撃した日も含んでいる。また、別の「大和隊」の隊員も含まれているのを、映像からカットしてもいる。簡単にいえば捏造、やらせである。
父の涙
わたしがそれを知ったのは、わずか10年前のことだ。「文藝春秋2014年1月号」の特集記事「神風特攻『敷島隊出撃』の真実/森史郎」によってである。同記事によれば、映像に映っている隊員の1人は、実は立っているのもやっとの状態で、両脇を同期生(飛行操縦課程の同期)が寄り添いながら歩き、その脇を抱えて零戦の操縦席に座らせたのだという。
その事を当時87歳の父に話したとき、父は顔を大きく歪ませ、大粒の涙を流し、搾り出すように声をだした。
「それでもよく飛んで行った・・・」
わたしは、あの時の父の顔と声、そしてその言葉を忘れることができない。父は、涙とともにその彼を讃えたのである。昭和2年生まれの父は、隊員たちとほぼ同世代。その父も今はない。
軽薄、浅薄、薄情な日本人
敷島隊の指揮官関行男大尉は、23歳だった。愛媛県西条市で母ひとり子ひとりの家庭で育った。また、結婚して5ヶ月の新婚でもあった。「大ニュース」が国内で知られ、「軍神」となった彼の実家には、多数の見知らぬ人も含む多くの弔問客、地元(だけけではない、全国からも)学校生徒からの大量の手紙が届いた。関の母は息子の死を悲しむどころではない、喧騒の中に投げ込まれた。関の実家だけではい、他の隊員の実家も同様である。中には、生家のある村か、居住地の村のどちらで墓を建立するかで大騒ぎになった隊員家族もあった。その建立費用には寄付金も寄せられらた。
ところが敗戦後、かつてはあれだけ隊員たちを「軍神」としてもてはやした世間は、一斉にそっぽを向く。それだけではない、「戦争協力者」と非難し、「犬死」と蔑むようにもなる。なんということだ・・・。
Wikipediaによれば、昭和56年に関の地元愛媛県西条市の楢本神社に敷島隊5名の顕彰碑が、有志によって建立されたとある。碑の揮毫は当時の県知事によるものだという。今ならば「賛美するのか!」と、大問題になるだろう。
身は軽く務め重きを思ふとき 今は敵艦にただ体当たり
敷島隊の隊員の1人、谷暢夫は20歳、特攻隊員に指名された日の夜、彼はこれを同期生に示し、「辞世になんかなってないなあ」と笑ったという(出所:「文藝春秋/同記事」P142)。
戦後、彼の母は70代前半の年齢で、家族の反対を押し切ってレイテ島の海岸に立った。谷の同期生による招きである。息子が戦死したはるか沖合いをのぞみながら花を海へ手向けた。
その母は語る
「海岸に出てレイテ湾に向かい合掌しましたら、わが子の残した足あとの温もりを、今自分の足で踏ましてもろうて有難いことやと思いました。
また花を海に投げましたときに、思わぬ波が来て、自分の靴の中に水が入り、ああ、目の見えるうちに今日ここに来さしてもろうて、来てよかった、”お母さん、来てよかったな”と息子が迎えに出てくれたと思うたときに、言うにいわれん気持で胸一杯でございました。そして花束が波に乗せて寄せては返し、だんだん遠ざかって消えて行くのをじっと眺めておりました・・・」(「敷島隊の五人(下)/森史郎」P363)
関の母親
昭和20年の正月、まだ「軍神」熱が冷めやらぬ頃、立派な祭壇の設けられていた関家に、関の中学時代の親友が訪ねてた来た。母は、遺骨として渡された白木の箱を一緒に開けて欲しいと彼に頼んだ。2人でそれを開けると、中には小さな関の遺髪が入っていた。関が託したものだった(なんらかの遺品が遺族にかえってきたのは敷島隊の中で関だけである)。
新聞には、「涙を見せぬ軍神の母」と書かれていたその母は、その小さな髪の束を見つめるうちに目頭を押さえ、
「西条の人たちは行男のことを、軍神、軍神と騒いでくれとるけど、私は生きていてほしかった・・・」
と肩をふるわせた。それまで弔問客に気丈にふるまってきたその母も、息子が心を許した親友の前で、ついには堰を切ったように悲しみの言葉をあふれさせ、
「こんな姿になってしもうて・・・・、どうしてこんな姿に・・・」
と号泣した。(出所:「敷島隊の五人(下)/森史郎」P)371〜372)
戦後、一変した世間からの視線、風当たりだけでなく、関の母親は日々の暮らしにさえ困窮したらしい。GHQにより、軍人恩給、遺族年金が廃止させられたからだ。その復活は独立回復後の昭和28年。共産党を除く全政党の賛成により国会で議決された。しかし、復活後の支給を受け取ることもできずに関の母親は亡くなった。55歳だった。
その母は、今一人息子とともに、伊予三島(現在は四国中央市)の秒除(村松)大師に眠っている。
※関の妻は、関の母のたっての願いもあり、離籍し第二の人生を歩んだ(出所:「敷島隊の五人(下)/森史郎」P)373)。
終わり