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5-6.情報は即座に日本へ

革新官僚林則徐

清朝は海防にはほとんど力をそそがず、イギリスの船舶が急速な技術革新のさなかにあったのに対して、中国の船は、17世紀からほとんど変わっていませんでした。そんな中で最初の欽差大臣であった林則徐は、ロンドンで1834年に発行された「地理学百科事典」を翻訳させ、友人魏源ぎげんには世界の情勢を調査させるなど、西欧事情を調べはじめており、広東の沿岸でも現状でできうる限りの一応の海防体制は強化していました。林は保守的な官僚ではなく、世界情勢にも広く目配りした革新的な官僚といえます。

魏源のまとめた成果はアヘン戦争後の1844年に「海国図志」として最初は50巻本として出版され、この中で欧米事情の紹介のほか、近代軍備とその生産方法をも記しています。1847年の60巻本は、1851年に日本にもたらされ、幕末の日本に大きな影響を与えました(出所:「海と帝国/上田信」P505〜506)。

オランダの狙い

さて、アヘンをめぐる清とイギリスのいざこざは、早くも1839年6月、長崎に入港したオランダ船からの通常の風説書により伝えられました。この時点では戦争は起こっていませんが、林則徐の広東のイギリス人へのアヘン密売に対する強硬手段を正確に記したものでした。

そして、翌1840年に来航したオランダ船が、イギリスと清が戦争状態へ入ったことを伝えたのです。また、この年には通常の風説書だけではなく、オランダ独自の政策により「別段風説書」と名付けられた文章が、バタヴィアで作成されて幕府に提出されました。オランダはアヘン戦争を幕府に正確に伝達すべき事柄として認識したのです。オランダは、対日貿易全般を見直す必要に迫られており、清朝と同じように外国との貿易を制限している幕府へ対しての警告でした。善意からだけではありません。

清とイギリスとの戦争を詳細に伝えれば、対外的な恐怖から、もしかしたら幕府は貿易の制限を緩和するかもしれないと考たのです。それがオランダの狙いでした。

別段風説書は、主に広東で発行されている英字新聞がニュースソースでした。1840年の最初のそれは、91項目もある膨大なものでした。

※それまでの「風説書」は、長崎で新任商館長から聞き取った内容をオランダ通詞が翻訳したものでしたが、「別段風説書」は、それより上の組織であるバタヴィア総督府により作成されたもので、その情報量はとても比較にならないほど多いものでした。もちろん、オランダの政治的・商業的な意向が強く出ていたのはいうまでもありません。この「別段風説書」は1858年まで継続して提出されました。

翻訳に一苦労

また翻訳に際しては、並大抵の苦労ではなかったと思います。聞き取った言葉ならば、意味不明な単語はその都度聞き返し、平易な言葉で説明を受けることが可能でしたが、オランダ語での膨大な、いわばレポートの中には、当時の日本にない概念も多数あり、その都度新たな日本語を造語しなければならなかったからです。

当時のオランダの状況

オランダは、1830年に工業先進地域で人口も多かった北部が、ベルギーとして独立を宣言し、以来9年間にわたり軍事介入を続けていたため、1840年代になると深刻な財政危機に陥り、植民地からの収入でかろうじて財政破綻を免れていた状況でした(出所:「オランダ風説書/松方冬子」P144)。

ちなみに、オランダが東インドの植民地で始めた「強制栽培制度」による利益は、オランダ中央政府の年間税収額の30%強を占め、1870年代には50%以上にもなった。そのおかげで、オランダは過去の巨額の債務を正常レベルにまで戻し、1863年の奴隷解放に伴う補償金を奴隷所有者に支払い、全国に鉄道網を広げ、所得税の導入を1893年まで延期することができた(出所:「物語オランダの歴史/桜田美津夫」P190)。

続く


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