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6-6.果てなき領土拡張

1803年にルイジアナを購入し、領土を大きく拡げたジェファーソン大統領は、「わが連邦は巣のようなもの、つまりそこから南北両アメリカに植民していく巣のようなものとみなされなければならない」と述べていました(出所:「アメリカ史(上)/紀平英作」P167)。1840年代になると、まさにこのとおりにアメリカは太平洋岸にまで領土を拡大することになります。1844年は大統領選の年でしたが、領土の拡大を選挙スローガンにしたジェームズ・ノック・ポーク大統領が第11代大統領として就任するのです。アメリカ国民の明確な意思だったとしていいでしょう。ポーク大統領は、現在のテキサス、オレゴン、カリフォルニアを手に入れるのです。最初にテキサス州からみていきます。

テキサス州

テキサス州は、その当時メキシコの領土でした。メキシコは、1821年に宗主国スペインから独立しており、国土の北方への拡大をはかるため、入植者に広大な土地を与える方策をとっていました。そこに押し寄せたのがアメリカ人の入植者で、1830年には2万を超えるアメリカ白人と、2千の黒人奴隷がテキサスに居住するようになっていました。そこに植民してきたアメリカ人が、メキシコとの戦いの末に勝利し、1836年10月にテキサス共和国を発足させ、アメリカへの併合を合衆国に依願してきました。このメキシコとの戦争の過程で「アラモの砦を忘れるな」という言葉がアメリカで有名となります(アラモ砦に立てこもったテキサス人がメキシコの攻撃で全滅し、その復讐戦の戦意高揚の言葉となった)。正式なアメリカへの併合は1845年となりました。

オレゴン州

次にオレゴンですが、ここは1818年以降イギリスとの共同領有地となっていましたが、その北に位置するイギリス領カナダとの境界線は、両者にとっての懸案事項でした。アメリカは太平洋を望む自然の良港を手に入れ、海軍基地と中国貿易の拠点をつくろうと考えていました。国境線を北緯何度におくか否かでイギリスと交渉をしたのです。アメリカの強硬派は北緯55度40分までを主張しました。現在のカナダのブリテッシュコロンビナ、都市で言えばエドモントンや冬季オリンピック開催場所でもあったカルガリーまでが含まれます。一方のイギリスはコロンビア川(現アメリカのワシントン州北部半分がイギリス領となる)を境界線とすることを考えていました。大きく隔たった双方の主張でしたが、最終的には北緯四九度を境界線とすることで合意し、1946年にオレゴン条約が締結されました。

カリフォルニア

最後にカリフォルニアですが、ここは名目上メキシコ領土とはいえ、ほとんどメキシコ人が手をつけていない領域でした。アメリカは、当初金銭による買収を申し出て平和裡にそこを獲得するつもりでしたが、メキシコに拒否され、最終的に武力に訴えることになりました。米墨戦争(1846年5月から1847年2月)とよばれるものです。この戦争でアメリカはメキシコ・シティを占領し、多くの民間人を殺害、婦女を凌辱したりし、著名な自然主義思想家・詩人でもあるヘンリー・デイヴィット・ソローは、それを激しく非難し、投獄されるはめにおちいったといいます(出所:「物語ラテン・アメリカの歴史/増田義郎」P210)。この戦争で勝者となったアメリカは、メキシコにリオグランデ川以北をアメリカ領として認めさせ、カリフォルニアとニューメキシコの広大な土地を金銭譲渡(15百万ドル)させることに成功しました。これで、現在のアラスカとハワイを除く現在のアメリカ合衆国の領土が確定することになるのです。その後1848年には、手にいれたばかりのカリフォルニアにおいて、金鉱石が発見されて、よく知られる「ゴールドラッシュ」が起こります。一攫千金を夢見た人びとが殺到するようになるのです。

アメリカは、大西洋だけでなく太平洋へ繰り出す玄関口を手に入れたことになりました。前述したように、アメリカは既に清との間に望厦条約を結んでいます(1844年)。「日本」、この未知の国に向かうのは必然であったと言えます。

続く


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