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2-7.家康の外交方針

西洋との最初の出会いはポルトガルでした。やや遅れてスペインがやってきました。彼らは貿易の相手としてだけでなく、日本にキリスト教を宣教することもその目的で、出会い当初の蜜月関係から、宣教師の処刑といった険悪な関係となっていきます。秀吉死後、家康の時代を迎えますが、家康は彼らに対してどのように考え、そしてどんな目論見があったのでしょうか。

対スペイン(メキシコ)貿易を目論む

家康は、信長、秀吉がどうポルトガル、スペインの人間に接していたのかを見ており、冷静にどうつきあっていけばいいのかを考えていたはずです。秀吉による1597年の宣教師26名の処刑は、やりすぎだと思っていたのか、それとも当然だと思っていたのか、後者であったとしても実際に手を下したのは自分ではなく秀吉なので、その強烈な一撃は、今後の自らの外交方針の大きな後ろ盾となったと思います。当初、家康はキリスト教に関して、数ある宗派が一つ増えるくらい、どうってことないくらいに考えていたと思います。

家康は1598年の秀吉没後すぐに、3年続けて使者をマニラへ派遣しています。家康が望んだのはスペインとの貿易でした。定期的な江戸入港を望んでいたのです。ポルトガル船によるマカオ貿易が九州を中心に展開していたため、マニラと関東を結ぶ貿易を考えていたのです。そうして、その目は太平洋の向こう側メキシコにまで向いていました。したがって、マニラへは、マニラのスペイン人が毎年江戸湾浦賀に来航すること、日本人もメキシコに赴いて通商したいこと、その航海用の船をつくるための造船技師や職人を派遣してほしいことなどを要請していたのです(出所:「戦国日本/平川」P123)。

リーフデ号、三浦按針あんじん

関ヶ原の合戦(1600年)の数ヶ月前、九州に1隻の船が漂着します。オランダが送り出した7隻の船団のうちの1隻、リーフデ号(長崎のハウステンボスにその船の複製が係留されている)でした。この船団は、喜望岬まわりではなく、大西洋からマゼラン海峡を抜けて太平洋を横断して東南アジアへ向かう船団でしたが、途中嵐に遭って豊後(大分県)に漂着したのです。家康は、その報告を受けると直ちに使者を派遣して、船長並びに船員の保護を命じました。船員は24名と伝えられています(出航時は110名だった)が、その後3名が死亡、歩ける人間は6名でしかなかったそうです。

漂着した船員の中の1人に、航海長でウイリアム・アダムスというイギリス人がいました。大阪で彼と面会した家康は、彼を大いに気に入り、のちに外交顧問のような役割で俸禄を与えています。日本名を三浦按針(あんじん)と名付けました。もう1人、航海士であったヤン・ヨーステンも、同様に俸禄を与えられています。日本名は耶揚子(やようす)。彼の江戸での住居跡が今の地名「八重洲」に残っています。

2つの東インド会社が日本に拠点

漂着し保護された船長は、のちに帰国を願い出て、アダムス主導のもと伊東の港で新たにつくられた船で、1605年に、当時オランダ東インド会社の商館のあったパタニ(マレー半島南東、現タイ王国)へ向かいました。家康は彼にオランダと通商をおこないたいという信書を持たせたのです。その信書の返礼として、1609年にオランダ東インド会社の船が日本に入港、平戸に商館を構えることになりました。また、同社に雇われているとはいえ、イギリス人であったアダムスの斡旋により、1613年にはイギリス船(イギリス東インド会社)が入港して、同じく平戸に商館を構えるのです。こうして、ポルトガル、スペインに加えて、新たにオランダ、イギリスが日本で活動を開始するようになるのです。この両国はキリスト教の宣教を目的としてはいません。あくまでも商売が目的でした。

続く

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