日米の饗宴
170年前(嘉永5年)の今頃
幕府が、横浜でペリー一行をもてなしたのは、ちょうどこの3月です。ペリーの2度目の来航は1854年2月13日(嘉永5年1月16日)。そこから約2週間、応接場所をめぐっての応酬が繰り広げられ、前年通り久里浜としたい幕府と、そこを拒否するペリーとの決着がついたのは3月1日でした。幕府は、前年久里浜に建てた応接所を横浜に移築、増築して準備することになります。
「二汁五菜」の本膳料理
彼らの上陸日3月8日には、ペリー一行300人を、「二汁五菜」の本膳料理、1人前の料理の品数としては90を超えたものを用意してもてなしました。
「江戸の外食文化資料」には、当日の料理の再現写真まで記載されています。豪華かつ、とても一人では食べきれない量のものが供されたことがわかります。ちなみに、幕府側200人併せて計500人分の代金は、1億5千万円と同サイトにあります(1名分3両を30万円として計算)。
日本の応接役筆頭だった林大学の従者の日記によれば、「乗組員たちはスプーン・フォークを持参しており、料理の刺身には手をつけず、甘くて味の濃いものばかりを食した」(出所:同サイト)とありますが、「手をつけず」ではなく、「手をつけなられなかった」が正しいと思います。
今なら、訪日外国人旅行客の垂涎の的になるに違いありません。ツアーとして、それを再現したら申込みは殺到するのではないかと思います。
ペリー側のおもてなし
ペリーは返礼として、総勢70名ほどの幕府の一行をポーハタンでもてなしました。3月27日のことです。初めて飲む酒、料理に臆することなく、「日本人はよく飲み、食べ、騒いだ」と「ペリー提督遠征記」には記されています。今の私たちと振る舞いは変わらないのだな、と思います。
ペリーに抱きつく幕府の役人までまでいたようで、その様子を心配したアメリカ士官が、その時の事をペリーに尋ねると、ペリーは「条約が無事に締結できるなら、あの日本人にキスされてもいいと思った」と答えたともあります(遠征記)。
日本人は、食べきれなかった鶏の丸焼きを、袖のたもとにいれて持ち帰ったらしいので、なんとも驚きです。
終わり