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世間の評判

人気投票

東京都知事選の最中です。わたしは都民ではないので投票する「義務」はないですが、やはり首都東京の知事ですので、その行方に興味がなくはないです。都知事選は、まちがいなく人気投票で、「知名度」があるかなきかがその勝敗を決める大きな要素ですね。

何年前でしょう、「東京都市博の中止」というシングルイシューを掲げ、しかも「選挙運動はしない」と公言して立候補した青島幸男が当選したことがありました。知名度ゆえにそれが受け入れられ、結果として当選したのだろうと思います。

幕末の庶民の人気者

黒船来航で、江戸が騒然としている頃、水戸の徳川斉昭は、自藩で製造した大砲や弾薬、軍船までも幕府に献上しました。わたしの記憶が確かならば、この大砲の運搬道中に、「さすがは水戸のご老公だ」と、江戸の庶民は拍手喝采。非常に頼もしく映ったのだと思います。この時点では、政権内での彼の評価も、世情と同一だったと思います。藩内で反射炉をつくり、鉄の製造にまで着手するなど、非常に先進的な取り組みでまでおこなっていました。

しかしながら、斉昭が進取、開明的だったのはこの頃までで、安政年間になると、政権内からは「困ったお人」の扱いを受けるようになります。ひたすら「攘夷」を言い募り、「ペリーの暗殺」や「ロシア人の皆殺し」など、「とんでも意見」ばかり言うようになったからです。世間の評判とのギャップは明白です。

また、斉昭は政権の顧問的な立場を自ら退いた後には、自らの意見(政権の意思とは正反対)を、京都の天皇側近にまで展開するようになるのです。
わたしは、彼の行動は害悪でしかなかったと思っています。

「この人しかしない」その1

14代将軍を決める問題が騒動になりました。これを知っている人は多いと思いますが、政権内部だけでなく、諸藩や京都までをも巻き込んだ政争となったのです。一橋慶喜派と徳川家茂いえもち派で真っ二つに割れたのです。政権内部の官僚や、薩摩・越前などの当時有力諸侯といわれた藩主などは、英明といわれていた慶喜を推していました。彼なら外国と新しい関係を築かなければならないこの時期に、リーダーシップを発揮し、紛糾する問題を専断してくれるはずだと期待したのです。

14代将軍は家茂となりましたが、その後は慶喜が15代将軍となりました。かつて、彼を将軍職にと推した人たちは、彼の行動、リーダーシップをよしとしたでしょうか?評判通りだと評価したでしょうか?

私にはそのようには思えません。「大政奉還」は世の流れだったとは思いますが、もう少し別の終わらせ方があったのではないかと感じているからです。特に、鳥羽伏見での戦い後、部下を見捨てて大阪から江戸へ無断で帰ってしまうなど、あってはならないことだったと思います。

ちなみに、諸外国の公使・領事たちは、慶喜との謁見後には、皆彼を誉めており、良い印象を与えています。

「この人しかいない」その2

14代将軍家茂の政権には、「将軍後見職」として慶喜、新しく作られた「政事総裁職」に、これまた「開明的で明君」と評判のあった福井藩主松平慶永よしなが(彼は慶喜派の筆頭だったといっていい)が就任します。松平慶永は「春嶽しゅんがく公」ともよばれ、幕末をあつかった司馬遼太郎の小説などにもよく登場します。「竜馬がゆく」にも竜馬の能力を買い、竜馬を可愛がった藩主として描かれています。

ところが、当時幕府の官僚(外国奉行支配調役並/今ではいえば、課長級か)だった田辺太一は、「幕末外交談」の中で、その春嶽を極めて厳しい口調で非難しています。

蹙国しゅくこく(国を縮める)百里と難ずべき恥辱は、当時興望をになって朝廷の思し召しも目出たかった老候春岳その人にあるとは、これまた奇怪なことではないか。それのみでなく、唐太からふと(筆者注「樺太」)の境界談判においても、ロシア政府との約束にそむいてこれを棄て去るのやむなきにいたったのであるが、これもまた春岳の政治制裁のときであったのである」(「幕末外交談1/田辺太一」P227 〜228)

これは、小笠原諸島の帰属問題に対しての春嶽への非難です。

春嶽は政治総裁職にありながら、仕事がうまくいなかくなると、突然全てを放り投げ、勝手に自領越前に帰国してしまうのです。だから、彼は辞職ではなく「罷免」扱いです。総裁職になってわずか8ヶ月後です。

これを知った時、わたしはかなり驚きました。また、小説世界を信じていた自らの不明を恥じました。

あてにならないもの

ここに挙げたのは、歴史上のわずか3例に過ぎませんが、おそらくもっとあると思っています。

わたしの結論はこうです。

「世間の評判が良い人に実際に有能な人はいない」

最近30年間ほどを振り返ってみれば、「日本新党」の細川護熙、「民主党」の鳩山由紀夫。彼らの評判はどうだったか、内閣発足当初の支持率は70〜80%前後もの高率ではありませんでしたか?実際はどうでしたか?

わたしの出した結論もそう間違っていないと思います。

終わり

タイトル画像:徳川斉昭

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