2-1.ポルトガルとスペインの野望
日本と明の征服意図
ポルトガル、そしてやや遅れて来日したスペイン、ともに「明」と「日本」の征服意図をもっていたといわれています(出所:「戦国日本と大航海時代―秀吉・家康・政宗の外交戦略/平川新(以降「戦国日本/平川」と記す)P33」。これは歴史の授業では一切でてきません。
1583年、スペインのマニラ司教は、スペイン国王に対して、明国内における布教への妨害は、武装攻撃を正当化するとして、できるだけ迅速に軍勢の派遣を求め、翌1584年には、ポルトガルのイエズス会の宣教師が、同地区の責任者に対して、明人を改宗させることは不可能なので、メキシコやペルーと同じように征服すべきだと書き送っています(出所:「戦国日本/平川」P34)。
日本の征服についても同様でしたが、当時の日本の軍事力を警戒しつつも、明の征服のために大いに役立つ、そのために信者となった大名を支援するために軍勢の派遣を求めてもいます。信者とならない勢力を屈服させるためです。宣教師たちだけではありません、フィリピンのマニラ総督、ポルトガルのマカオ総督たちも、意のままにならないのなら征服ということを考えていたのです。
戦国日本の軍事力
種子島に王直ととともにやってきて、鉄砲を売ったポルトガル人は、その2年後に再び日本にやってきた時、すでに堺、紀伊、九州で鉄砲の製造と売買が大量に行われていることに驚嘆したといいます(出所:「火縄銃から黒船まで/奥村正二」P30)。「戦国日本の軍事革命/藤田達生」には、鉄砲の国内普及は永禄年間(1558〜1570)に本格化したとあります。国産化はアジアの中で最速だったらしいです(出所:同書P12)。
鉄砲の力を最もよく理解した武将は、ご存知のとおり織田信長です。彼は有名な桶狭間(1560)、姉川(1570)、長篠(1575)のすべての合戦において、鉄砲を使用していますが、その極め付けが長篠での鉄砲の大量使用(3,000挺ともいわれているが、近年の研究ではそこまで多くないとも)でしょう。戦いの仕方まで変えたものでした。当時、相当な数の鉄砲が、国内にあったと思います。
ちなみに、火薬の材料の一つ硝石は、当時は国産ができませんでした。したがって、信長の鉄砲の大量使用を可能にした大量のそれは輸入品であり、その斡旋をしたのはイエズス会宣教師たちといわれています(出所:「戦国日本の軍事革命/藤田達生」P26)。多くの戦国大名たちがこぞって宣教師たちを招き入れたのは、これが理由でもあったわけです。鉄砲だけでなく、大砲も輸入されています。当時の大砲の砲弾は、それ自体が爆発する榴弾ではないため威力が少なく、また、野戦で使用するには道路事情が悪いため、移動・運搬が困難であったことから、日本ではそれほど普及しませんでした。大坂の冬の陣(1614)で、家康が大坂城へ打ち込んだ大砲は、当時日本に商館のあったイギリス東インド会社から購入したものです。
戦国当時の日本の軍事力は、少なくとも西洋と互角、あるいは凌駕していたかもしれません(詳細に調べきれていません)。その強力な軍事力の背景が、西洋との出会いを対等なものとしたのです。
続く