5-9.頻繁になるアメリカ船の来航
漁場に殺到するアメリカ捕鯨船
1845年以降、多くのアメリカ船が日本近海で目撃されるようになります。中には日本との接触を求めたものもありました。目撃された船のほとんどは捕鯨船でした。19世紀には、灯火用の油として、鯨油は現代の石油に匹敵するほどのものでした。1835年に、北太平洋アラスカ沖でコディアック漁場とよばれた新たな漁場が発見されました。アラスカ沖からオホーツク海、日本海にまで広がる広大な漁場でした。対馬藩でのアメリカ船の目撃情報は、1848年には26隻、1849年には148隻と急増しています(出所:「幕末の海防戦略/上白石実」P170)。
捕鯨船マンハッタン号
単に日本近海を航海中に目撃されただけでなく、日本との接触を求めてきたのは、1845年4月に浦賀にやってきた捕鯨船マンハッタン号でした。
同船には、日本の鳥島(伊豆諸島の一島で現在東京都に属する)、並びにその周辺海上で救助された日本人漁師22名が乗っていました。マンハッタン号は、北洋を目指した航海途中で日本人を救助したのですが、そもそも船の乗組員は28名、そこに日本人が22名も乗り込んだわけです。同船のクーパー船長は、操業を中止して日本に向かうことにします。マンハッタン号は直接浦賀に向かったわけではありません。当初は江戸へ行くことを目論みましたが、救助した日本人から「それはできない」と諭され(どう意思疎通をしたのでしょうか。身振り手振りであったとしか考えられません)、浦賀へ行くことを提案し、クーパー船長も了承します。そのため、一旦房総沖で停泊し、数名の日本人が上陸しました(おそらくこの上陸も命懸けだったと思います)。事情を説明するためです。3月14日のことです。上陸した彼らは直ちに取り調べを受け、最終的に江戸へ送られました。
幕府の対応
情報を得た浦賀奉行所では、警備担当の川越藩、忍藩に警備を厳重にするように命を出しました。しかし、マンハッタン号は嵐の影響もあり、すぐには浦賀にはやってきませんでした。
4月17日に、マンハッタン号は安房館山(現千葉県勝浦市)に再び姿を現しました。そこに、警備担当の忍藩士が乗り込み、浦賀へ案内します。警備の定石どおり、その周りを二重三重にも小舟で取り囲みました。これは「垣船」と呼ばれ、乗組員の上陸と、日本人の接触を防ぐためにおこなわれたものです。幕府は、浦賀で日本人漂流民を受け取るか否かを協議します。本来ならば、薪水や食料は与えても、漂流民の受け取りは長崎でおこなうことになっていたからです。現場の当事者である浦賀奉行は、漂流中に救助されたということを重く受け止め、浦賀で受け取らないと自国民を捨てることになり「不仁」となること、漂流民には10歳の子供もいること、「不義」の扱いをすれば、「御国体」にかかわることなどを理由に、浦賀での受け取りを提案します。幕府内では、国法をまもり、長崎へ回航させてオランダ商館へ引き渡すという意見が大勢を占めていました。老中首座になったばかりであった阿部正弘は、浦賀で漂流民を受け取ることを、今回に限りという条件でそれを許します。そうして、漂流民は日本に無事送り届けられることになりました。
漂流民たちは、涙を浮かべて乗組員らとの別れを惜しみ、感謝を伝えたといいます。乗組員たちは、特に10才だった勝之助との別れを惜しんだそうです(出所:「幕末の海防戦略/上白石実」P157)。
英語通詞森山栄之助
1808年のフェートン号事件以後、「英語通詞」の養成がなされたことは前述しました(「4-11.異国船対応の転換」)。この事件で、通詞としてその任にあたったのは森山栄之助という人でした。1843年、浦賀詰通詞として赴任していたのです(江戸天文方との兼務で常勤ではない)。彼が23才のときです。彼についてはこれから何度か書きます。
ただ、この時点では相対したクーパー船長によれば「英語も少しばかり解するが、ジェスチャが甚だ巧みである」と評されています(出所:「幕末の外交官森山栄之助/江越弘人」P21)。
大ニュース!
マンハッタン号浦賀寄港のニュースは、翌年1846年2月に、ハワイホノルルの新聞で4ページを割いた記事となったといいます(出所:「日本開国/渡辺惣樹」P136)。うかつには近寄れない不思議な国に、初めて風穴を開けたと捉えられたからです。
タイトル画像出所:マンハッタン号包囲図(浦賀コミュニティセンター分館所蔵)https://yokosuka-promenade.blogspot.com/2018/05/blog-post_2.html
続く