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4-13.国内情報の流出

シーボルト赴任(1823)

1823年には、長崎に商館付き医師としてシーボルトが赴任してきました。オランダはすでに独立を回復していましたが、ナポレオン支配下で疲弊した経済を回復させなければなりません。そのため、彼には本国政府から、日本との貿易量を増やすために、より詳細な日本の情報を入手することが命じられていました。来日2年後に彼がオランダ領東インド総督に宛てた報告書は「1.宗教、2.風俗習慣、3.法律及び政治、4.農業、5.書得及び税、6.地理及び地図、7.芸術及び学問、8.言語、9.自然研究、10.薬草学、11.珍現象、12.職員関係、13.会計」と広範な分野に及んでいます(出所:「江戸のオランダ人/片桐一男」P45)。

鳴滝塾

彼がこれだけ広範囲な情報の収集ができたのは、商館長の全面的な支援と、長崎住民の診察や医術の伝授などと引き換えに、長崎奉行により破格の行動の自由が与えられたことによります。彼が出島の外に開いた「鳴滝塾(現在、その跡地にはシーボルト記念館がある)」では、全国から集まった俊英に医術や天文学、薬草学などが幅広い分野を教えられました。50名以上の門人がいたといいます。これはその頃すでに「蘭学」が江戸や長崎に限らず、地方にまで裾野が広がっていたことを示唆しています。全国から集まった門人たちは、オランダ語でレポートが書けるほどの語学力を身につけていました(出所:「物語オランダの歴史/桜田美津夫」P164)。

当時のシーボルトは20代後半の若者です。彼は、自分の知識を門人に教える代わりに、門人たちから自分の知りたい情報やものを手に入れました。純粋に学問的な情熱ではありましたが、彼が集めた日本地図(国外持出し禁止だった)が、幕府により知られることになり、国外永久追放ということになりました(ただし、1856年には追放解除となって息子とともに来日、一時期幕府の外交顧問になった)。

今も残るオランダ語

シーボルトが来日した頃は、有名な「解体新書」が出版(1774年)されてから半世紀を経ており、蘭学は全国に浸透していたと考えられます。「物語オランダの歴史/桜田美津夫」によれば、オランダ語の単語がそのまま日本語として定着したものが、江戸時代には約350あり、今でもその半数ほどが残っているという。例えば、アルカリ、アルコール、カンフル、ギブス、ピンセットなどの医術用語と、コンパス、タラップ、デッキなどの航海術関係用語です(出所:同書P165)。航海術関係用語は、幕末の海軍伝習所時代の言葉です。それまでは医術用語が圧倒的に多かったと考えられます。

オランダ語であったメリット


江戸時代の日本人が、オランダ語の書物によって科学をはじめ、多くのことを学べたのは、非常に幸運なことだったと思います。オランダ語には、それぞれの意味を持つ単語を組み合わせて作った言葉が多かったからです。特に日本が学んだ自然科学の分野ではそうでした。

これは、若きニュートンにも影響を与えたといわれるシモン・ステフィン(1548〜1620)が、近代科学の概念を平易な日常のオランダ語によって表そうとして新たに作った言葉であり、これが和訳に大いに役だったのです(出所:同書P166)。

例えば、「zuurstof(酸素)」というオランダ語は「zuur(酸)」と「stof(物質)」の組み合わせてステフィンが作った言葉です。日本人はそこから、「酸素」と言葉を作ることができました。英語なら「oxygen」なので、こうはならなかったでしょう。同じように「waterstof」は「water(水)」と「stof」の組み合わせなので「水素」と造語しました。

桜田氏同書では、医学用語の例が挙げられていますが(P63)、「角膜」「結膜」「網膜」、これらもすべて「角」「結」「網」と「膜」の組み合わせなのだそうです。江戸時代の日本人は、オランダ語を日本語に充てるのではなく、新たな日本語を作らなければならなかったので、その苦労は並大抵のものではなかったでしょう。そして、それを全て漢語(漢籍)から借用、造語したわけですので、漢語に対する知識も相当なものだったと思います。

以下余話として(現代中国語)

江戸時代から、西洋からきた言葉に日本人が漢語を当てはめてつくった言葉は、明治後に大量に中国へ伝わります。伝わるというより、日本にやってきた中国人が持ち帰るのです。

「中華人民共和国憲法規定的権利和義務(中華人民共和国憲法が定める権利と義務)」という現代中国語の中に、純粋な漢語は「中華」「規定」「的(の)」「和(と)」だけで、あとは全て日本人が作った漢語です。現代中国語の高級語彙の半分以上が日本人がつくった「漢語」だと言われています(出所:「漢文の素養/加藤徹」P209~210)。

加藤氏同書によれば、中国社会科学院の李兆忠氏の言葉(2003年)として、
「たとえば、『金融』『投資』『抽象』など、現代中国語の中の社会科学に関する語彙の60〜70%は、日本語から来たものだという統計がある」
と紹介しています(同書P210)。

現代中国人は、このことを知っているのか知らないのか・・・。「漢字」を親として、文字の日本語を作った日本人(いわば子)の、非常に大きな恩返しだというのに。

余話終わり

次回から「5.予兆」と題した新しい章となります。何の「予兆」なのか?新たな恐怖、それはアメリカでした。

続く


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