
年度末だし人生振り返ってみた
初めまして、Note書いてみます、いいつかりようです。
今僕は立教大学観光学部観光学科を休学し、石狩市厚田区の地域おこし協力隊として働いています。
協力隊の活動としては主に動画やチラシを作ってSNSで発信しております。どちらも北海道に移住してから始めたことですが、ご好評の声をいただけています。嬉しいです。
おそらく僕と今繋がっている方はほとんどが地域おこし協力隊になった後の僕であり、埼玉で住んでいた時代のことは知らないことと存じます。
実際、
「りょうくんはなんで休学して協力隊になったの?」
「どうして石狩に決めたの?」
ということも聞かれることが多かったので、人生グラフを使って簡潔にまとめさせていただきます。
基本情報
僕は生まれてから大学生まで埼玉県富士見市という場所で過ごしました。富士見市は、同県川越市と東京都池袋の間にあるベッドタウンで、30年ほど前の急成長により栄えました。そのため小学校もほぼ新設校であり、毎年後者が追加されていくというなんともワクワクする環境で育ちました。
また、駅前にはミスドやマックなどのチェーン店はほぼ網羅しており、最近家の近くにファミマが3件できました。それでも潰れないということが、今なお生きているベッドタウンの証拠だと思います。
1.小学6年生までの僕
ゲーム大好きな普通の子でした。連絡網を片手に片っ端から友達に電話をかけて、マリオカートやスマブラなどを毎日僕の家でやる。一人でもゲームをしすぎてお父さんお母さんによく怒られてました。
勉強もそこまでできないわけではなく、公文に友達と通っていたので楽しく過ごしていた覚えがあります。ただ理科と社会はすごく苦手。今だに苦手です。
2.ふらふらの中学生時代
中学校はそのまま公立の中学校に進みました。「友達が入るから」という理由でサッカー部に入りましたが、先輩とどう接していいかわからず、2年次まではあまり楽しくなかったです。そのおかげか、今でも年上の人は苦手です。
でも友人関係には恵まれ、学校行事では比較的前に出る役回りが多かった気がします。授業中も先生をからかいながらもみんなを楽しませたり、修学旅行でお笑いを披露したり、放送委員長を勤めたりしてました。今思えば、僕は人と一緒に何かしたり、人と一緒に高め合うのが大好きな人なんだと強く感じます。少なくとも一人で黙々と勉強できるタイプではないです。
3.闇の高校時代
とにかく闇でした。私立高校に入り、知らない人がほとんどの環境。最初の人間関係に失敗してクラスで孤立してました。クラス替えもなかったので、3年間必死に笑顔を作っていました。特にいいこともなかったような気がします。
ただ、高校2年時に通知表で学年最下位を取った時に、「これ以上下がることないし、勉強したら順位が上がるだけじゃん!」と気づき、試しにテスト勉強をしてみたところ、数3のテストでクラス一位になりました。
テストで勉強すれば点を取れることに気づき、「それなら勉強すれば大学もうかるのでは」と試しに高校3年生から受験勉強をしてみたところ、E判定しかでなかった大学に受かりました。勉強って大事だなぁと強く感じました。
ちなみに、志望校とは言っても、高校の進路希望選択に死ぬほど悩んだ結果、家から近い大学(最寄りから一駅)という理由で選んだだけでした。それだけやりたいことが本当にない人でした。
4.のほほん大学生爆誕
そして志望校である立教大学観光学部観光学科に入学した僕は、高校時代とは正反対の生活を送ることになりました。高校の時は常に周りの目を気にしてビクビクしながら「死にたいな」なんて考えていたのですが、大学は人間関係も自由。楽単を取って授業は単位を取ることに従事し、それ以外の時間は常に図書館でYoutubeを見る生活をしていたような気がします。
一方で、「観光学部だから勉強しなきゃ」という思いもあったので、せめてものあがきとして一人旅をちょくちょくしていました。夜行バスが東京大阪間だと安いことが多くあったので、水曜日の授業後にバスに乗り木曜日観光し金曜日の一限を受ける、なんてこともしていました。
その一人旅の中で僕が感動したのが「天神橋筋商店街」でした。元々寂しがりやなこともあり、一人旅をする中でも途中途中に繁華街に行くことが多くありました。この商店街は日本一長い商店街として有名なのですが、見知らぬ八百屋のおばちゃんが話しかけてきたり、自転車に乗ったおじちゃんがゆっくり通り過ぎて行ったりと、「初めてきたのにどこか見慣れた場所のような感覚」いわゆるフルサトの感覚を味わいました。子供の頃から無印都市で過ごしてきた僕にとっては衝撃でした。
この思い出は今の地方創生への原体験になっていますし、未だに商店街に関わりたいという想いは強くあります。人が集まれる場は大好きですし、そのワイワイした空間の中で落ち着きたいなぁと思ってます。
5.石狩インターン
人生グラフには書いていないのですが、「なぜ石狩の協力隊になったのか」を伝えるためにも記しておきます。
大学3年次、みんなが就活を始める中で僕は「何をしようか」という問題に陥っていました。
これまでの通り、小学校からそんなに熱中できることがあったわけではないし、大学も家から近いから選んだだけだったので、当然と言えば当然です。しかし、とりあえずインターンに入っておこうという想いはありました。
立教には、単位が取れるインターンとして「地方創生」というのがありました。北は北海道、南は九州まで様々な企業自治体の中から候補を選び、面接を受けて合格したらインターンに行ける、というものです。それだけでも面白そうだなぁと思ったのですが、「石狩の商店街を活性化する」という、他のインターンにはなかなかない募集要項が書いてあったため、自称商店街オタクの僕はすぐに志望し、行くことになりました。
インターンの詳しい内容としては、8月の一ヶ月石狩に住みながら(僕は石狩に住んでいる方のところでホームステイ)商店街の魅力化プランを考え、他にもHP作成やお祭りでの出店をし、最終日に活動報告会を行うというものでした。大学生は6名でそれぞれ立教大2名、樽商大1名、藤女子大2名、弘前大1名でした。
詳しいことはまた追記しようかなと思いますが、石狩での一ヶ月は非常に僕にとって有意義でした。初めて親元を離れ、全く環境の違う夏の北海道での生活。毎日9時〜17時まで学生だけで市民会館に集まり、お祭りの準備でバルーンアートの練習をしたり、HP作りのために地域の方とお話をしたり…。「仕事」というより文化祭の準備をしているような感覚でした。
この日記を見ればだいたいわかるかと思います。
僕は今までの人生で人間関係で失敗して忘れたくなることが多くあったけれども、ここでの経験はとても充実しており未だに思い出します。
6.就活→協力隊
インターンも終わり、大学4年生になった時また僕は同じ問題につまずきます。
「やりたいことがない」
商店街の活性化をやりたいけれども、そんな仕事はきっと無く、あったとしてもある程度のスキルがあってのものだと思います。地元に商店街があるわけでも無く、地方創生のインターンに行った人もみんな普通の就活を始めていたため焦りました。
就活はまだ早い
と僕は思いました。もっと色んな仕事を知りたいし、商店街の活性化という仕事がないなら作りたい。そのためには時間が足りない、そう思いました。
それでも何となく就活をし、商工会議所などの面接が進んでいく中、石狩の市役所の方から地域おこし協力隊の募集が来ました。
「追加募集やってるから、よかったら来てねー!」
今思えば、確実に冗談だったと思います。他の場所に移住するのは簡単なことではないし、ましてや卒業前の大学生にはなおさらきついです。
でも、僕はもともと協力隊について学んでいたこともあり少し興味がありました。さらに、あの思い出のあった石狩市での募集。
雇ってくれるならやってみたい
そんな気持ちで僕は募集希望の旨を伝えました。
そのLineが来たのが募集締め切り前日だったり、何とか速達で出した半月後に石狩で面接したりとバタバタな日々でしたが、やってみたいの2ヶ月後には僕は石狩市厚田区の地域おこし協力隊になっていました。
そんなこんなで今の僕があります。少しは伝わったかな。
最後に
僕の人生、薄っぺらいでしょう。何不自由なく過ごしてきたからこそ、やりたいことも見つからず、今を生きれればそれでいいと生活していきました。
そんな中で、就活は良くも悪くも「僕は何がしたいのか」を見つめ直すきっかけになったと思います。ただ、未だに僕がしたいことはわかっていません。
とりあえず、人と一緒にワイワイして、隣の人を幸せにすることを頑張ろうと思っています。
たまに自己評価が高くなってしまうので、たまに人生を振り返って、一つ一つ丁寧に紡いでいこうと思います。何か残せたらいいな。
とりあえず。あとで画像いれます。