自分に向き合うということ


 最近になって、自分の性格の理解が進んできた。それは、自己理解の本をちょっとだけかじったということもあるが、自分の行動を内省する機会が増えたからだと思う。大学生になって、一人暮らしを始めそういう時間が増えた。過去の自分の行動や嫌だったこと、その時の感情を振り返って自分はどういうことが得意なのか、どういうことが苦手なのか、あるいは何ができないのか。そういうことに対する理解が進んだからこそ、無駄に疲れるということが減った。でも、最近の悩みの種はアルバイト先での人間関係である。

 僕は、小学校くらいの時から無口な人だった。コミュ障というやつである。休み時間は本当に辛かった。自分から声をかけることができないから、机にうつぶせながら周りの人がどんな話をしているのかと聞き耳を立てていた。そして、周りで起きていることやトレンディな情報を集めていたわけだ。でも、なんだかんだ言って楽しかったのでよかったなと思える。その時の趣味は、ゲームをすることで、休みの日は食事以外の時間はずっとゲームに没頭していた。とても、ハイだった。かといって、人と全く話せないというわけではなく、4つ上のやさしいお兄ちゃんがいたので、一緒にゲームをしたりスポーツをしたりといろいろ楽しんだ記憶がある。その当時からできなかったことは、雑談である。家族との食事の時間やテレビを見ている時間は全くと言っていいほど会話に混ざることができなかった。会話の空気を読みすぎる癖があって、流れを乱しちゃいけないという気持ちがいつもあって、雑談に対する恐怖心まであった。しかし、逆にできたことは、好きなことをやっているときや気の知れた人と一緒にいる時間は普通に話せたという記憶がある。条件が重ならないと話すことのできないめんどくさい性格だった。今は、その条件はなんとなくわかってきたので友達と話すことができるが、その数は本当に少ない。
 
 前触れが長くなったが、最近、弁当屋でアルバイトを始めた。総合的に見て環境は非常に良いと思うのだが、なんせ、コミュ障はいまだに治っていないため(治せるかどうかはわからないけど)人間関係には悩まされる。アルバイト先で働く人たちは、人柄がよく面倒見がよい人たちなのだが、人と人との距離が近いため、緊張してしまう。距離が近いと、当然会話が生まれるのだが、たいてい僕が働くときは、僕含め、3人で店を回している。僕は無口なものだから、ほかの2人はすらすらと雑談をしている。しかし、僕は話せないからちょっとだけ疎外感を感じる。はじめのうちはいいのだが、どんどん積み重なると辛い。たまに話を振ってくれるのだが、少しだけ話したら僕は、仕事に戻る。難しいなと感じるのは、話しながら仕事をするということである。僕の性格上、一つのことにしか集中できないし、人との距離が近いと緊張するし、雑談が苦手だし、2人以上の人と話すときは仲のいい人がいないと話せないしと、数えるときりがない。今の問題を自分なりに整理すると、「仕事場で、同じ人とずっと一緒にいる場合のコミュニケーションの仕方がわからない」だ。まず、普通のコミュニケーションが苦手な僕はコミュニケーションの基礎を学んだほうがいいのかもしれない。
 
 『覚悟の磨き方 超訳 吉田松陰』の中で、「心を疲れさせないためには、余計なものを求めないことです。」(p.136)という言葉があります。自分のできないことをできるようにしたいと考えると、できない自分が嫌いになり心が疲れていくように、僕が雑談というものを極めようとしてもほかのみんなとスタート地点が違うので、結果として、凡庸な成果に終わってしまう。だからと言って、すべてをあきらめるということはしたくないので、一つ、普通のコミュニケーションで意識しようと思っていることは、「声を大きくしてしゃべる」ことである。これが、意外と有効だと思っていて、僕自身、自分の声の良さには自信がないのだが、たまに、自分がしゃべる声をスマホで録音することがある。話しているときのスマホの距離が20センチくらいにもかかわらず、後で録音した自分の声を聞くと、驚くべきことに、全く聞こえないのである。それは、ちょっと盛ったかもしれないけど、恐ろしく声が小さく、こもっていることに気づく。書きながら気づいたことだが、僕が、会話が続かない原因は声の小ささにあるのではないかと考えた。
 
 つい、先日大学の「心理学」に関する授業で、ワーキングメモリについて学習した。その講義では、「日本人が英語で外国人と話すときは思考能力が落ちる。なぜなら、日本語を英語に変換することにより、脳のワーキングメモリの資源が奪われ、会話に充てる資源が少なくなるからだ。」というようなことを学んだ。ワーキングメモリとは、黒板のようなものを想像してもらうとわかりやすいと思う。このワーキングメモリの容量が多い人ほど、一時的に多くの情報処理をこなすことができる。これを、僕のコミュニケーションに当てはめると、僕が小さく聞き取りづらい声で相手と話すことで、相手の人は、「僕の声を聞き取る」ということに、多くの処理資源(ワーキングメモリ)を使わなくてはいけないため、会話が続かないのではと考えた。日本という国は、相手に気を遣う国だから言葉を頭の中で変換することに多くの処理資源を使っていて、それなのに、僕は小さい声でさらに相手の処理資源を食い漁っている。なんて愚かなんだろう。高校のころ、仲のいい友達に、「お前と話していると疲れる」と言われたことがある。その時は、笑って受け流したが内心ショックだった。今、思い返すと原因は僕の聞き取りづらい声だったのかもしれない。(それ以外にもあると思うけど)

 


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