Vガンダム最終回考察:いくつもの愛をかさねて(再掲)
※2023年5月に公開した記事を再度掲載します。
今回は公開期限を特に定めない予定です。
『機動戦士Vガンダム』30周年の一環に、ファンとしてささやかながら貢献したいとの思いです。
いつの日になるか不明ですが、改訂版を出したいと考えております。
前書き(能書き)
本年2023年はTVアニメ『機動戦士Vガンダム』の放映開始30周年に当たります。
その記念の一環でしょうか、BS11で3/31~5/19の毎週金曜19:00~19:30に『機動戦士Vガンダム』セレクションが放映されていました。全51話中の8話を選出した構成となっています。
先日5月19日(金)に最終回(第51話)「天使たちの昇天」が放送されました。
ただ、この最終回のラストシーンを「分かりにくい」と感じておられる方々もいると思いますので、私が2009年(ガンダム生誕30周年)の年末にmixi上にアップした考察を再掲します。
これが視聴者の皆様の理解の一助となれば、幸いです。
(大元の日記の前書き部分は省略、改行を調節、見出し・画像を適宜追加)
「バカな事」と思われるかも分かりませんが、この『機動戦士Vガンダム』は、現時点で私が人生において最も影響を受けたアニメ作品です。
「その魅力を伝えたい」というのが、一人のファンとして昔から抱いていた想いです。
ただ、この考察は若気の至りで短時間で書き上げたものであり、今読み返すと稚拙であり、バージョンアップさせたものをいずれ出したい、またほかにもVガンダム関連の投稿を上げたいと考えておりますので、6月末までの公開とします。
しかしながら、ラストシーンの解釈については、私は大学生のときから基本的に以下の捉え方に変わりはありません。
※画像およびセリフの出典元(書誌情報)は本投稿末尾の注にまとめて記します。
※作品自体の概要については、以下のサイトをご参照ください。
機動戦士Vガンダム (v-gundam.net)
序論
中学生のときにビデオでこの最終回を観たときは、「とにかくよくわからない」というのが実感でした。
「なぜ、もともと親密な仲だった、シャクティとカテジナがわざわざ、よそよそしい態度をとるのか? 戦争も終わったのだから、また元のように皆で仲良く暮らせばよいのに、なぜ、初めてであった赤の他人のような接し方をするのか?」
当時15歳だった私の理解力では処理できない問題でした。
視聴者にわかるように説明しないというのは、ガンダムの世界ではよく用いられる手法です。そのため、これまでこの最終回についてはさまざまな解説がファンの間からなされました。
「カテジナの記憶喪失」説、「死よりも重い罰を科した」説、「シャクティはカテジナを許したくなかった」説などなど。
これといった正解は富野監督の意向を聴かない限りはわかりませんが、あくまでこの作品を観て私なりに「こう考えたほうが納得がいく」、「こういう意味合いだったらいいな」というものを論じていきます。
勢いにまかせて短時間で仕上げた稚拙な文章で、いろいろと反論・修正の余地はあるかと思います。
以下はあくまで私なりの現段階での一解釈として受け取っていただけると幸いです。
本論
リガ=ミリティアとザンスカール帝国の戦争が終わり、冬のカサレリアに一人の旅人が迷い込む。
故郷のウーイッグへの道を訊ねに来たのだが、カサレリアに立ち寄ることになったカテジナ。
そんな彼女をかつてのカテジナ=ルースだと、シャクティは間違いなく気づく。
いまだに敵だと思い警戒心を表して唸るフランダースを制して、シャクティはカテジナに駆け寄る。
おそらく何とかして彼女の力になりたいとシャクティは考えているのだろうが、ザンスカール側の人間として数々の殺戮に加担し、ウッソの運命も振り回し、長らく敵対関係にいた人物に急に優しく接することは自分個人の意思を越えて抵抗がある。
この人をカサレリアに向かい入れても、自分やウッソはともかくマーベットたちが許さないであろう。数多くの仲間の命をこの人に奪われたのだから。
表面上はマーベットたちとも仲間のように振舞うことはできても、間違いなく心の内で不信感を募らせながらお互いに消えぬ傷を抱えつらい日々を過ごすことになるだろう。
そして何よりも、カテジナ自身がそうされることを望まないであろうことをシャクティは強く感じ取っているからこそ、あえて知らないふりを押し通していたのだ。
シャクティの声を聞いて、失明したカテジナも相手がかつて見知った相手だとおそらく気づいたのだろう。
もしかしたら、彼女も胸の内で、「またかつてのようにウッソたちと平和な日々を暮らせるかもしれない」という淡い期待を抱いていたのかもしれない。
けれども、そうするには、あまりにも自分は多くの罪を犯した。
自分が赦されることはおそらくないであろう。
だが、あの心優しき少女なら、もしかしたら・・・・・・
しかし、シャクティの口から「カテジナさん」の一言も聞けないことに彼女の望みは潰える。
間違いなく相手も自分がカテジナであることはわかっているはず。
けれども、自分の中に元の生活に戻ることに対する抵抗感・負い目があることを見抜いてシャクティはあえて見ず知らずの人物として扱っている。
それでいて、決して突き放すような態度はとらず、親切にもウーイッグまでの道のりを教えてくれる彼女の心遣いにカテジナの心は揺り動かされる。
いま言えば、まだ間に合うかもしれない・・・・・・
そのとき、灰色の空から、冷たく白いものが降ってくる。
まるでカテジナの心の内を映し出すように。
目前にいる無垢な赤子との対話と雪によって、彼女の胸中になにかがこみ上げてくる。
そこへ「どうかなさいました?」の一言。
自分の思いを気取られないようついた言葉が
「い、いえね、冬になると訳もなく哀しくなりません?」
その声はどことなく震えている。
それを聞いたシャクティはうつむき、寂しい声で「そうですね。」と答える。
「ありがとう。お嬢さん。」と告げ、カテジナは去っていく。
人知れず、背中を向けたまま、嗚咽をこらえながら。
その後、ウッソたちが駆け寄るが「道に迷った、ただの旅人」だと告げ、カテジナだとは気づかれないように配慮する。
周りに誰もいなくなった状態で、一人カテジナが向かった方向を再び見送るシャクティ。
その頬には幾筋の涙が静かに流れていく。
人々の平和を願ったシャクティの祈りをもってしても、カテジナが背負った業だけは癒すことができなかった。
そしてカテジナは一生消えない十字架を担ぎ、暗く、つらい日々を送ることになるだろう。
この、カサレリアの冬の空のように。
戦争というものが、人々の絆を簡単に断ち切ってしまう。
そして一度途絶えたつながりは、二度とつながることはない。
誰もが、もとのように手を取り合って暮らすことを望みながら、それがかなうことは決してない。
人がなんどもなんども繰り返し、やめることのできない過ち。
あまりにもやるせなく、切なく、そしてひたすら哀しい。
それを強調するように、バックに流れるのは「いくつもの愛をかさねて」。
老兵たちが、あとを継ぐ若者たちのために自らの命をささげたリーンホースJrの特攻シーンと合わせて、劇中2回しか用いられなかった名曲。
そして、雪が降りしきるカサレリアの冬をV2ガンダムとVガンダムが、まるで打ち捨てられたかのように佇んでいる。
それは、モビルスーツ=兵器のいらない平和な世界が訪れたことを象徴している。
数多くの人々の哀しみの果てに、ようやく訪れた戦争のない世界。
それが『機動戦士Vガンダム』の唯一の救いなのかもしれない。
そして、その世界を静かに見守るかのように、2体のモビルスーツが、そっと佇む。
その姿から、なにか温かい優しさが感じられるかのように・・・
あとがき(のようなもの)
私がこの考察に至るまでには、いくつものファンの解釈を参考にさせていただきました。特に、カサレリアの山中に佇む2体のガンダムを以てして「モビルスーツ=兵器のいらない平和な世界」を表現しているという捉え方には非常に感銘を受けています。ひとつひとつ、その参照元を記録できていないのは情けない限りですが、この場を借りて緒先輩方に感謝を申し上げます。
また、この作品を世に送り出された富野由悠季監督をはじめ、製作スタッフの方々に改めて感謝申し上げます。(富野監督からはお叱りを受けそうですが・・・)
この「少女の涙」と「雪の中に佇むマシン」が、この作品を象徴しているように思えてなりません。
なお、Facebook上でこのBS11『機動戦士Vガンダム』セレクションに関する日記めいた短めの考察を上げていますので、ご興味のある方はこちらもお読みいただければと思います。そして、この作品を再度見返していただけれることが、ファンとしての最大の望みです。
※第50話に関する考察を一例としてリンクしましたが、「#Vガンダム 」で検索すれば一連の投稿を表示できます。
(このハッシュタグだと、ν(ニウ)ガンダムもヒットしてしまうのが考えものですが)
注:映像およびセリフの出典元
投稿表紙および03:
『機動戦士Vガンダム』Blu-ray BoxⅡ DISC 8バンダイビジュアル.
創通・サンライズ. 2015(1993)
第51話「天使たちの昇天」
再生位置:20:45
※1話分内での再生位置・概算値
※モニターに投影された映像をデジカメ撮影し、トリミング後、
サイズ縮小したものを使用
01_同上 再生位置:10:40 より
02_同上 再生位置:20:21 より
04_同上 再生位置:21:10 より
05_同上 再生位置:21:45 より
06_同上 再生位置:21:54 より
07_同上 再生位置:22:16 より
※以上の画像は、あくまで自分の考察をより分かりやすく伝えるための「引用」目的で用いたものです。
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