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伊奈波神社 9 淋しそうな直子さん

 市役所の近くにうなぎの寝床のような喫茶店があった。たいていいつも客がほとんどいない店なのだが、蝶ネクタイをピシッときめた年配のマスターがやっていた。
 ぼくのまえには直子さんがすわっていた。
 「わたしが子どもを授かれば家にいてくれるのかもしれないって思うんですけど」。直子さんは自分を責めるようにそういった。孝志が外泊をくり返す理由をそこに求めているようだった。
 孝志の外泊癖はあいかわらずだった。
 この日ぼくは市役所に用事があって交通政策課をのぞいたのだった。直子さんに「昼休みに話しませんか」と声をかけると、彼女は席をはずしてやってきた。人目につかないようにして裏口を出るとぼくらはこの店まで来た。なんか不倫してるみたいな感じで、ちょっといやだった。
 交通政策課というところはなにをするところかわからなかった。直子さんがむずかしい政策を考える仕事をしているとも思えなかった。ぼくらが高校へ通うころ、市内中心部の道路はとても混雑していて、朝夕にバスに乗ろうとすると車内はいっぱいだったが、でも、いまでは市内中心部の道路混雑は解消されたし、バスの混雑も解消されてきた。いってみれば、岐阜市は空洞化がはじまっているのだ。
 直子さん以外はおじさんばかりの部署で。彼女の席は部屋のすみっこのほうにあった。課長さんにたのまれて、コピーをとったりお茶を淹れたりしていた。つまんない仕事だろう。
 直子さんは淋しそうに見えた。
「でも、わたし、できの悪い嫁のような気がして」
「そんなことないですよ」
「そうでしょうか」
「悪いのは孝志だから」
 彼女が孝志と両親のあいだに立って、なにか問題の解決ができるような采配ができるなら、もしかしたらふたりの関係もよくなるんじゃないかと、ふと思ったが。いや、たぶん、孝志が柳ヶ瀬に入り浸っているのは家に帰りたくないし借金のことを忘れたいという気持ちがきっとあるからなんだろう。そんなことは彼女にはいえないけれど。
 マスターがコーヒーとサンドイッチをもってきた。
 直子さんはぼくの目を見ると、なにかいいかけた。でもマスターがちらりと彼女の目を見ると、また彼女は下をむいてしまった。
「ここわたしが払います」
 彼女はあわててそういと、コーヒーもろくに飲まないままぼくをのこして店を出て行った。
 マスターが店の奥でひまそうにタバコを吸っていた。

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