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長良橋通り 1 ドラえもん?

 美香がこの店にくることになっていた。
 ぼくは、汚れた壁に貼られた品書きがさっきから気になっていた。
「ぶどう酒にすっか」。
 ぼくの目線に気づいた孝志が、手元のビール瓶が空になったのを見て、親父に注文した。
 このぶどう酒という言葉も聞くのもひさしぶり、むかし小説で読んで以来じゃないか。どんなものが出てくるかと待っていると、出てきたのは赤玉ポートワインだった。
 長岡にはきょうも常連がたむろしていた。
 親父は、冷えた串カツをどて味噌の汁のなかに突っこんで、ちょいと温めてから皿にあげると、くだを巻きはじめた男のまえに差しだす。その男のまえにはコップ酒が一杯、まだ八分目まで残っていたが、見ているとさっきから少しも減っていない。自分の酒にはほとんど口をつけないで、この男はまわりの客の話に口をはさんでばかりいる。
 ええかげんにしろ、何時間ねばったら気がすむんや、と親父がぼやいている。
 金公園からほど近い場所にこの居酒屋はあった。長岡という店の名前は、地名から来ているのか、それとも店主の苗字から来ているのか。はじめてここへ連れてこられたとき、それが気になった。柳ヶ瀬には由香里とかよし江といったママさんの名前そのままのお店がいっぱいあったから、長岡が親父の苗字であっても不思議ではなかった。
 美香はこの店がわかるだろうか。
「カヌーやっとって釣りの連中とけんかになったんや」
 自慢げに孝志はいった。こいつはこの夏カヌーを買ったばかり。長良川ではカヌーがはやっていたし、三年後に完成する長良川河口堰のことで反対運動が盛りあがっていた。
 川でカヌーをやる若者がふえてきて、鮎釣り客ともめているという話はしばしば聞いた。川を上流から下ってきたカヌーが、瀬のところで釣りをやっている人たちのまえを通り過ぎてゆく。ただそれだけのことだが、釣り客にしてみれば釣りを邪魔されて、鮎が逃げてしまったということになる。でも川はみんなのものだ。
 孝志は河原で釣り客ともめそうになって、それを取りなしてくれた古い釣り師から、ちょっと嫌な話を聞かされたらしい。
「大雨が降って増水してたから、釣りに来てたひとりが流されたらしいんや。死体がまだ上がってないで気をつけろっていわれてさ」
 それで怖くなってその日は川下りをやめたようだ。
 孝志はぼくの目を見ていった。
「おまえ、ドラえもん見たことあるか?」
 ドラえもん?
 言ってることがおかしいぞ、孝志。話の流れからして、それ、どざえもんの間違いじゃないのか。
 そのとき、店の入り口が開いて、新しい客が入ってきた。その戸口から秋の夜風が入りこんできて、ぼくは急に肌寒さを感じた。


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