DANNY JIN アベプラ生放送からの論考
著者紹介
Ryoです。HiphopクルーHojiChaで、DANNY JINと共に活動してます。楽曲制作の補助、アートワーク制作、広報など色々やります。
あと、写真を撮っています。ポートレート中心にやっています。
古着屋スタッフ、オンライン販売などもやっています。まだまだ駆け出しです。
本業は大学生で、スペイン語を勉強してます。
考えたこと
マスメディアの表象は日本社会の写し鏡であり、出演者が当たり障りのないことばかり言ったり、他人に言わせようとしたり、そのような人間しか出さななったりするのは、日本社会が問題から逃避していたり問題に向き合っていないことの一つの証拠である。
だが、メディアと社会の関係性は社会からメディアの一方通行だけではない。相互的に影響しあっていると私は考える。
故に、Dannyのように政治的発信をする、問題を取り扱うアーティストが現れ、少しづつでもメディアが関心を持って取り上げはじめたことは、日本社会のわずかな変容を証明している。かつ、そうしたメディアの態度の変化は、さらなる社会の変化及びアーティストの変化を促す可能性がある。現実として、今の多くのメインストリートのアーティストは、社会から分離した楽曲を作っているのが現状ではなかろうか。そうした表象の在り方を変えることは、社会の表象に対する受け止め方を変えることと同義である。
つまり、アーティストと社会、その両方に働きかけ、変化を起こしていくことで、今まで現れにくかった表象が大規模に生まれうるのではないかと私には思える。それは、何らかの力によって「作られた」ものではなく、「リアル」を表現するものになるだろう。
旧ジャニーズの方々だって、自分たちの内情や様々な記憶を歌にすることは可能だ。
ラッパーでないアーティストだろうと、社会への不満を言葉にしたり、音楽にすることは可能だ。批判があろうと、異なる意見があろうと、表現してしまえばいい。大手も、ベテランも、もっと気軽に思ったことを言葉にすれば良い。
そしてラッパーこそ、社会、音楽業界の不正義の糾弾、歪みの告発を行うものが現れてもいいはずだ。少なくとも今までのマスメディアは、政府に追従し、大衆を操作して骨抜きにし、金と名声を餌にアーティストを服従させてきた。後ろ暗いことなど山ほどあることは誰でもわかっている。ヒップホップ、ラップに求められているのはそういった既得権益からの要請や懐柔に動じることなく、リアルを追求することではないか。
だからこそ、Dannyが言うように、それができていない者をヒップホップとして祀りあげることはヒップホップの力を失わせることにつながる。その意味で、メディアに迎合し骨抜きとなったラッパーを認めるわけにはいかないのだ。
Dannyが戦うもの
こうした文脈を考えると、生放送で怒りのエネルギーを露発していたDannyが目指す先が見えてくる。
Dannyがしていることは、大きな挑戦である。
犯罪を犯した瞬間、人間が非人間化され、社会的に弾圧される現状への挑戦である。
不正義に声をあげることが冷笑され、新自由主義的合理性こそ素晴らしいとする醜い社会への挑戦である。
都合の悪い人間をアンダーグラウンドへ押し込める国家権力への挑戦である。
日本には抑圧などない、差別もない、文句を言うようなことはないとして問題を透明化する言説への挑戦である。
この緊迫した状況下で衆院選の投票率が50%台だったことは、日本人がいかに現実の問題を自分ごととして捉えていないかがわかる。逆に、大谷翔平などの「他人事」ばかりを日本人という属性から自分ごとのように喜ぶばかり。
Dannyの声はそんな生き方をしている人間には耳障りだろう。聞きたくないことを無理やり聞かされる。言われたくないことを言われる。逃げてきた現実を突きつけられる。それは苦痛である。
だが、その苦痛を乗り越えなければいけない。誇りある、社会の一員として。