友の声
秋に差し掛かったサンパウロは湿度が低く,気温はそれほど高くはないものの,刺すような日差しがジリジリと肌を焼く。
今日は2週間に一度の娘の矯正歯科の受診日だ。
娘の手を強く握り,周りに目を配りつつ,治安のよくないエリアを子供の歩く速度に合わせながらも,できるだけ早足で急ぐ。
坂道が多く,舗装が荒く,割れたアスファルトでぼこぼことした足元に気を付けつつ,まだ犬の糞をよけつつ,娘の足元にも目を配る。
通りには果物や飴,駄菓子を売る人々は散見されるものの,気温が下がってきたせいか,普段よりホームレスの人々の数が少ない。一般に,ホームレスの人々が危害を加えてくることはほぼなく,実際警戒すべきなのはこぎれいな格好をした,一見一般人に見える若者だ。
ただ,子を連れて歩いている場合,ターゲットにされることは少ない。
キリスト教徒(うち約半分がカトリック)が人口の8割を占めるこの国の人々はこどもにはとてもやさしい。
緊張感を保ちつつ15分ほど上り坂を歩き,目的の歯医者のあるオフィスビルにたどり着く。
のどが渇いたと訴える娘に水筒を渡し,受付で医師名と娘の名前を告げる。
約束は15:30
時計をみると,まだ15:15分。
少し早く来すぎたかなと思いつつ,待合室で待とうと椅子に向かうが,座る直前に診察室に呼ばれる。
あわててエレベーターに乗り込み,歯科医のA先生のオフィスに向かった。
いつも通りの診察を終え,矯正器具の調整を行いつつ,A先生は5歳で始めた娘の矯正が思惑通りに成功し,特に手術など,侵襲性の高い治療に移行する必要がなさそうなことを毎週嬉しそうに話してくれるのだが,この日は人と話したい気分だったのだろう。
自身の娘さんの手術とそれにまつわる話を聞かせてくれた。
A先生の娘であるCちゃんは妊娠7週目に早産で産まれた。
現在はすでに成人しており,健康な大人であるが,早産ゆえに,小さい頃は病気が絶えず,口腔にも問題があり,数度の手術を経験したそうだ。
Cちゃんが5歳になったころ,検診で口腔内に悪性の腫瘍が見つかった。
上あごに発生したそれは乳歯と永久歯の間のすきまに位置しており,侵襲性も難易度もとても高い症例だったそうだ。
A先生は口腔外科が専門であり,腕にも自信があったため,自ら執刀することを希望したが,A先生の大学のころからの友人のX氏が執刀医として名乗り出た。
A先生はせめて補助で手術に立ち会うことを願い出たが,X氏はこれも拒否した。
「A先生,君の気持ちは痛いほどわかる。長年の付き合いから君の腕がいかに良いかも知っている。だから今後僕の家族が口腔外科の手術をする場合,ぼくはその執刀を必ず君に任せる。だから君も僕を信用して娘さんを任せてほしい。」
手術は無事に成功し,それまでも良い友人で会った二人の仲はさらに深まった。
年に数回は食事をし,1年に一度は互いの家族とともに旅行をする。
ふたりはまるで兄弟のようだと良く言われた。
そんな数年を過ごした後,X氏はアメリカの大学に職を得て,引っ越していった。
海を隔てることにはなったが,その後も二人の親交は10年以上にわたり続いた。
互いの誕生日とクリスマスには電話をつなぎ,近況を報告し続けていた。
ある年,クリスマスには少し早かったものの,久しぶりにX氏を懐かしく思ったA先生はX氏に通信アプリで電話をかけ,少し早いクリスマスメッセージに残した。
ところが1週間が経過しても連絡が来ない。
送ったメッセージに既読はついていた。
何十年もの付き合いの中,こんなことは初めてだったそうだ。
そこでA氏は再度メッセージを残した。
俺のこと,忘れちゃったのか?
無視するなんてひどいじゃないか笑。
まあ,それは冗談として,忙しい日々を送っているんだろうけど,時間ができたら連絡してくれよ!
その翌日,X氏からの着信があった。
ちょうど患者の執刀に入っていたため電話に出られなかったものの,A先生は変な胸騒ぎを覚えたそうだ。
手術が終わり,残されていたメッセージを再生したところ,メッセージは彼の妻からだった。
X氏は数日前に新型コロナウィルスによる感染症でこの世を去っていた。
X氏が入院して以降,電話はずっと部屋の引き出しにしまわれていた。入院から約1週間後にX氏は亡くなり,あわただしい数日の後,久しぶりに充電をしてメッセージが届いていることをX氏の妻が確認した。返信や報告が遅れたことをX氏の妻は謝罪していた。
その後,X氏の妻と電話で話をし,お悔やみを告げたあと,A先生はメッセージが既読になっていたことをふと思い出したそうだ。
メッセージを送った日にはX氏はすでに入院しており,携帯はずっと引き出しに入れられていたためメッセージは聞けなかったはずなんだけど,不思議だよね。
でも僕からのクリスマスメッセージはたぶん彼にきちんと届いていたんだと思うんだよね。
あれからすでに2年がたつけど,彼がこの世を去ってからも僕の携帯にはまだ彼から受け取った過去のメッセージがずっと残っている。
彼を懐かしく思い起こすとき,今でもときどき彼からのクリスマスメッセージを再生しているんだよ。
X氏の声はいまも変わらず僕の胸をじんわりと温めてくれるんだ。