2023.9.23 SELFISH ONEMAN LIVE「スタンド・バイ・ミー」によせて
Sturm und Drangという言葉がある。
日本語で疾風怒濤と訳されたそれは、18世紀後半にドイツで起こった文学運動を指すもので、それまでの古典主義や啓蒙主義といった理性優位の言論に対し、感情優位を主張するカウンターカルチャーである。
現代的にいえばロジックとエモーションの対立とも言い換えられると思う。
人は誰しも、生きていれば疾風怒濤に出くわすことになる。
それは午前2時踏切に望遠鏡を担いで行くことであり、盗んだバイクで走り出すことあり、屋上で寝転び吸う煙草の煙の青さであり、渡り廊下で先輩を殴ることであり、終わることのない恋の歌ですべて消えて無くなれと叫ぶことと等しい。
頭ではわかっていても心が追い付かず、折り合うことなく混沌する時期。
そんな疾風怒濤の真っただ中を過ごしていた2009年高校2年の夏、僕は彼らの音楽に出会う。
バイト終わりの深夜、彼らはテレビの中にいた。
ストファイHジェネ祭り2009 北海道代表 SELFISH
北海道釧路市で結成された4人組の青春パンクバンド。
翌2010年、2年連続北海道代表として出場、見事優勝を果たし2011年上京。
主に関東圏で精力的な活動したのち、2013年9月22日新宿マーブルでのワンマンをもって解散。
僕の人生を明確に変えた、最愛のバンド SELFISH。
彼等が自分にとってどんな存在で、ライブを10年振りに見て、何を感じたのかを記しておく。
彼等に惹かれた理由はハッキリしていて、自分が初めてパンクに触れた藍坊主の1st〜2ndの匂いがプンプンする音楽をやっていたこと。それを同い年のやつらがやってるという事実。こういう音楽が好きなのは自分だけではないということが本当に信じられなかったし、とても勇気付けられた。
今となってはしょうもない理由だが当時の自分にとっては切実で重要なことだった。
2009年に存在を認識した後から2010年も出場するまではレコチョクでダウンロードしたKeep Onと少年ゴリステルを聴いて過ごし、彼らの優勝をテレビで見届けた後は幸せになってくれよとHelloを繰り返し聞いた。
記憶の中では高校卒業と同時に解散するとしていたはずだが、いつの間にやら活動継続•上京するとの一報がありそりゃそうだろって勝手に納得したことを覚えている。
自分の話をするが高3の秋にAO入試が終わって上京が決まったくらい、おおよそ冬が来る前くらいにmixiを始めた。好きなバンドのコミュニティに片っ端から参加して色んな音源をDigる日々の中でふと思い至る。
SELFISHもコミュニティあるんじゃないの?
検索したらすぐにヒットした、主催者はまさかのボーカル森山本人。すぐに送る友達申請、進むやり取り、交換するSkypeID、サクッと通話。
え?銀杏BOYZとSEVENTEEN AGAiNも好きなの?マジで?
俺も相当どうかしてるしあいつもかなりどうかしていたと思うが、震災の影響で大学入学が遅れ時間を持て余していた同士、意気投合するのに大した時間はかからなかった。初めて会った時にもらったSELFISHの2nd demoは今も宝物だ。ジャケと歌詞カードはルーズリーフに書いてコピーしてたのを強烈に覚えている。
かくして僕はSELFISHのライブを見る前に何故か森山と遊ぶことになり、自然とSELFISHのライブを見ることが上京後の新生活に組み込まれていく。
初ライブだった池袋マンホールは行けず、初めて彼らを見たのは渋谷milkywayでのブッキングイベントだった。
確か対バンでRhythmic Toy WorldとHOWL BE QUIET(改名前でLifeという名前だった、前身はHジェネ09優勝のtista)が対バン。
ex tistaとSELFISHが対バン、こりゃ人パンパンなんだろうと思って行ったらびっくりするレベルでガラガラ、たぶん10人もいなかった。
田舎のパンク少年がライブハウス平日ブッキングの現実を体験した瞬間である。
そうして彼らに連れられるように、各所のライブハウスに赴いた。
平日のブッキングライブが主で、チケットはプレイガイドではなく取り置き。そういうアンダーグラウンドなインディーズシーンに関わるようになったのはきっかけは間違いなく彼らの存在である。
吉祥寺SHUFFLEも下北沢屋根裏も初めて訪れたのは彼らを見る為だった。
確かO-Crestで釧路メロディック/エモのSolenoid Switchと対バンしてたのがこの頃。Looking For Myselfで感涙。
2011年後半からSELFISHはayjgというパンクバンドを介して新宿Marbleを根城に活動をするようになり、必然的に僕もマーブルへライブを見に行く機会が増える。後に台風15号と名前を変えたRockstar too young to dieやロックの向こう側といったマーブルの主催イベントに月に3,4回と通う日々。
それだけ通っていれば自然と顔なじみができる。そうして僕は290円の生ビールとコロナをアホの勢いで煽りあの階段でたむろしながら、初めて同じ熱量で音楽を語ることができる友人達に出会った。
SELFISHがきっかけになりマーブルの階段でたむろした2年~3年は、自分の人生に大きな影響を与えてくれた。待ち合わせたり約束することがなくともあの階段に行けば誰かしらがいて、上京直後にそのような場所に身を寄せることができたことは本当に僥倖であったと思う。
そこで出会った連中は全員揃いも揃って自分勝手でロクデナシだった。自分勝手な奴らが自分勝手に集まった自由度の高いコミュニティ、そうした自分勝手が重なった瞬間の純度の高い連帯感。酔っぱらっているときだけ優しい奴等。
総じて貧しく、荒み、それでいてなお何かの可能性にしがみつくことを諦めきれなかった僕らは、あの階段でたくさんの話をした。それらは文字起こしするのも躊躇し口語でしか語れない下種なシモの話や生活の愚痴であり、若さをドブに捨てるような時間であり、生産性のかけらもないものだった。この時間は僕にとってとても大切な記憶になり、30超えた今でもふと思い出す情景である。
端的にいえば、自分にとっては少し遅くギリギリ間に合った青春ってやつだった。
活動範囲を広げていくSELFISHは徐々に動員を増やし、2012年の夏には主な拠点をマーブルから渋谷eggmanに移す。SHIT HAPPENINGやanother sunnyday、BLUE ENCOUNTなんかと対バンしてたのもこの頃だったかな。
音楽性もパンク色や青春ロック色が薄まり、歌モノに寄って行った時期。
その後は閃光ライオット2012・2013あたりに出場していたバンドとの対バンが増え、動員も右肩上がりで増えていく。新宿LOFTで取り置き50人超えたのにトッパーかよってぶー垂れたりしてたのをこれ書いてて思い出した。
動員は上がっていくのに一向にレーベルや事務所からの声がかかる気配がない。
そんな状況が彼らの関係性を少しずつ崩していったんだろう。
2013年の頭くらいから、彼らのライブは切迫感を増していく。
かと思えばどこか気が抜けたように一体感が欠如したまま譜面をなぞるように終わるライブもあり、そのブレーキ壊れたスポーツカーみたくアンバランスな状態のまま走り続ける様子を見ていれば、こんな状況がいつまでも続くわけがないことは如実に感じていた。
だからこそ解散の発表に大きな驚きはなかった。
あの解散の頃になにがあったのか外野の知るところではないがそんなライブの出来であったり、居合わせた中打ちでのつかみ合いやらを思えば大きな分断があったことは想像に固くない。その後のNina lovegoodでの経緯も含め、メンバー間の分断は決定的なものになったと感じていたし、だからこそこの4人を見ることは一生叶わないものだと思っていた。
ここ数年、再結成の予兆のようなものはあった。
2018年にツイッターアカウントに突然投稿されたリハ動画であったりメメタァとDear Chambers・Doxie等、それぞれの所属バンド同士の交流やディアチェンのアルバムジャケをドラムのケースケが撮ったりしていることにあったわけだがそんな動きを踏まえても、またライブをやるなんてことは到底信じられなかった。
それでもいつかは見られるんじゃないか。いつかはまた。
本当に、本当にずっとそう願ってきた。心の中からその気持ちが消えることはなかった。解散から10年の節目を迎えた2023年、ここを逃したらもう本当にないだろう。そう考えていた矢先の復活ライブ発表、奇しくもLabMarkのおかげで。
公式発表を目撃したのは仕事終わりだったんだけど、メトロの車内でボロボロ泣いた。
ライブ当日は友人と合流して、アルプスで軽く前飲みをする。
そういえばアルプスに初めて来たのもマーブルでライブ見た後の打ち上げだったなと回想する。この友人たちと会うのも久しぶり、みんなきちんと10年分歳をとっている。当時未成年だった彼女はハイライトを吹かしながら、初めて酒飲みながらSELFISHを見ると語っていた。
前飲みもそこそこにマーブルへ向かう。俺たちのコロナが待ってる。
マーブルに入場してからはこの日の為に復活したコロナの瓶ビールで乾杯。
あの頃飲む酒といえば290円の生ビールがほぼほぼだったのだが、懐に余裕があるときはよくコロナを飲んだ。
コロナ枯らそうぜってのが当時の合言葉で、あの頃のマーブルを思い返すと浮かんでくる情景にはあの瓶ビールがあった。
ライブの告知が出てしばらくしてから、ダメもとで店長にお願いしたらマジでコロナ仕入れてくれた。この場を借りて感謝したい、ありがとう店長。
でもやっぱりどう考えても48本は仕入れすぎだよ。そもそもこの日だけ復活!とかブチ上げずに売ります!だけにしとけばよかったのに。
どう考えてもおかしい、相変わらずぶっ飛んでいる。
そういえば昔はめっちゃいいイベントの後に店長がぶっ飛んで突然1ドリンク振る舞いだしたりしていたな。
相変わらず商売が下手だよ店長、でもあんたのそういうところが昔から大好きだ。
SEが鳴る、THE GET UP KIDSのHoliday
胸がグッときて、思わず泣きそうになる。
そうしてライブが始まった。
僕がSELFISHの好きだった部分はなんといってもライブにあったと思う。彼らは僕が知る中でどんなバンドよりも切実なライブをするバンドだった。
謳っている内容は恋愛かもしれないし、曲調は疾走感やメロディのポップさがフォーカスされるけど、何より彼らは切実だった。
その切実さが大好きだった。
ライブを見ながらなんとも言い難い感覚を覚える。
あの頃、彼らから受け取った切実さはもう感じなかった。
そして自分の中にも確かにあったはずの切実さももう失っていることに気づく。
4人とも出している音はあの頃とはまったく違うのだが、4人が鳴らせばSELFISHの音になっている。あの頃一番重要であった切実さは抜け落ちているのに、なぜだか不快感はない。
今もうまく言語化できないが、なんというかバンド自体はやっぱり10年前に死んでいてみんなで曲を弔っているというかそんな風にも感じた。
それらが意味することは、やっぱり忘れた、ということなんだと思う。
SELFISHの何が好きでそれを感じて自分がどう感じていたのか。
その事実は覚えているのに具体的な感情自体はもう思い出すことはできない。かつて決して忘れるはずがないと思っていた感情。
俺が抱いているコレはお前らがいうような安いものじゃない、どれだけ時間が過ぎても、風化も美化もされることもない。もっと切実なものなのだと強く握り締めていたはずなのにそれでもやはり忘れていた。
そしてもう戻ることはない。
忘れたという事実を受け入れること、つまり僕らの青春は明確に終わったのだと気づく。そんなことを考えながら見ている、聞いてる、かつて自分が大好きだったロックナンバー。10年前のラストライブ、彼らが言っていたMCが走馬灯のように響く。
「このままじゃダメだぞ、後ろ向くな、前向いて生きろ」
ーーどうだったかな、この10年。
後ろ向いたこともあったし、現状に甘んじたこともあったよ。
何度も挫けそうになり、実際挫けてしまったこともあった。
嘘もついたし、誤魔化した。根も葉もあること言われて、苦しかった。
日当たりのいい大通りで大手を振れるような格好のいい大人になったと は言い切れない。ダサい大人になってしまった、情けのない人間になってしまったかもしれない。
それでも、それでも。少なくとも、あの頃階段にたむろした頃の僕らに恥ずかしくないように。顔向けができないなんてことはないように、吐いたつば飲むような真似だけはしないように生きてきた。
それだけは信じてくれ、踏ん張ってきたつもりだ。本当なんだ。
ライブが終わる。
かつてさよならじゃなくまたねと歌って散った彼らは
もうまたねとは言わなかった。
幸せになってくれよと幸福を祈る言葉を投げつけて終わった。
SELFISHの直訳は「わがまま」である。
わがままに駆け抜け言葉を投げつけた彼ら4人の幸福を心から祈っている。
かつて大好きなバンドはこう歌っていたのを思い出す。
青春が終わって人生が始まる。
Bye Bye Youth.Life Goes On.
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