残された時間という発想

人間の可能性と言う言葉は好きだ。
今レオナルドダヴィンチをモチーフにした神神の復活と言う本を読んでいる。
はっきり言えば超面白い。
彼は科学者であり、アーティストだ。
彼の生存していたヨーロッパはキリスト教信仰が常識的であり、科学などというのは悪魔に取り憑かれた愚行だとされていた時代だ。

そんな時代背景には相容れず、自然現象や人そのもの、そして学問に真摯に、そして情熱的に対峙し続けた人の物語であるから、そりゃ感銘を受けるわな。

ただこの本上下巻で1000ページ近くある上、1ページにつき上下の二段構成というなかなかなボリュームなのでとにかく読むのは大変。でも、惹きつけられます。


先日、私に「君は文学をやりなさい」と助言してくれた利用者さんとこの本を話題にして雑談をした。

レオナルドダビンチには15程度の肩書きがある。それもどれもが一級品ときている。
これを非凡かつ多才と捉えるべきか。あるいは、人間に正しくアプローチをすれば、皆こうした可能性があるのか、という議論だ。
結論としては後者だろうということで一致した。

この利用者さんも多才である。
文学や絵画にも造詣があるが、本業は建築だ。
私はこの方に、生き方という点で多様な指南を受けた。今でも雑談が面白い。
利用者さんも「他の誰ともここまでの話は出来たことがない」とおっしゃってくれた。

さて、話を戻す。
才能ではなく、アプローチの問題だ、と我々は考えた。
もちろん、レオナルドダビンチの成し遂げたことは偉業であり、誰しもに出来ることではない。そこに才能というものの片鱗がないというには無理がある。
しかし、彼は超絶なメモ魔だった。次から次に溢れ出るアイディアを形にする手筈を自身で確立していた。
ここが味噌だと思う。

他の利用者さんに、「知的生産の技術」という本を紹介された。それはまさに知的生産活動をするための手順書だった。
手帳の書き方、日記と記録の違い、本をどう読むかなど。

この手順書はごくありふれた物だ。
特別は技術は何一つない。
しかし、これを紹介してくれた60代男性利用者さんが言うには、当時の学問をする大学生の必読書だったらしい。
専門学校時代、授業中に一番前の席でパソコンで映画を見ていた昔の自分を呪いたくなった。

ごくありふれた手順を徹底していた。
これに才能は関係するだろうか?
否、これには関係がない。

結果として表出されるものには各人の能力は大いに関係する。
しかし、手順の徹底には関係なかろう。
これを是認すると、現代ではパワハラやモラハラに直結するだろうが。
それほど現代は「容認」を強要するとも言えるのではないか。

風潮として理解はするが、私個人としては馴染めない。
ありのままを容認するより、ありのままを具現化できる自分になりたい。

そんな話を利用者さんとしていると、「君にはまだまだ時間がある」といつも話してくれる。
私もそうだなと思ってはいたものの、この「神々の復活」を手に取ってからは、いかんせんそんなに時間が残されているだろうかと思うようになった。

少なからず私は「感覚」や「感性」というものに対してアプローチをかけた。それによって、定量化できない性質に重きをおいてきたからこそ、この手順を確立するということについては疎い。

数多の工夫で練り上げられたものはあるが、明確な手順で積み上げたものは果たしていかほどか。
今はここに焦りを感じているのだ。

自分に残された時間は?と強烈に意識するやうになった。


人間の可能性にチャレンジするのと同様、人間はいつか必ず死ぬと言う事実に立脚し、残された時間を何に使うかを考えていきたい。

こう考えるようになったのも利用者さんとの対話の恩恵だろうと思う。

有難い。

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