【3月エッセイ課題】 私にとって「楽器」とは・・・
※この記事はオンラインの「さっきょく塾」のために書かれたものです。
結局3月分も滑り込みになってしまいました。月日が経つのはあっという間です。それにしても、他の人の目に触れる場所で思考を言語化するというのはとても良い経験です。しかもそれぞれにしっかり考えて活動している方々に見てもらうので、どう転んでも(心の中か文章にしてもらえるのかは置いておいて)突っ込みが入ると思うと、結局率直にならざるを得ないと思います。それもありがたいことです。
というわけで「楽器とは」です。
昔はいわゆる特殊奏法というのが苦手でした。
純粋に音響的な効果を求めるのであればその楽器でなくても良いのでは?と思っていたからです。その音響をわざわざ楽器で作るということに意味を見出しているのが嫌だったのだと思うですが、今考えるとその音響をわざわざ楽器で作るということに意味はあるし価値もあると思います。
大規模なポップコンサートなどで、全ての音はスピーカーから出ていて、ミュージシャンも遠すぎて肉眼ではほぼ何も見えず、モニタに映る姿だけ見ているということはよくあります。その状況だと、本人がそこにいなくても音をスピーカーから出すことは可能だし、モニタに映像を映すことは可能です。
どんなジャンルでも、コンサートやライブはそこに出現する音を聴くための場というより、一種の儀式なのだと思います。なので作品作りとは、儀式のデザインでもあると思います。儀式だとすると、多かれ少なかれ何かしらの物語が必要で、その物語が楽器の背負ってきた歴史である場合もあるのだと思います。
自分も演奏やら作品作りやらで人に何かを提示する人なので、自分なりの物語を提示する必要があります。それはなるべく避けたいと思ってきた人生ですが、避けられないと感じている今日この頃です。(それはすなわち様々なものに対してどう思っているのか表明することに他ならないと思うので、こういう課題はありがたいです。)
きちんと考えれば考えるほどニヒリスティックになってしまうとは思うのですが、一度アホになって自分の中身を好意的に精査しないとちゃんとは立てないと思います。
それらの話をいったん置いておいて、楽器とは自分にとって何であるか考えると、演奏者の内面を増幅して他の人に伝える装置です。
もちろん楽譜があるものの場合は作曲者の指示やらなんやらがあるのですが、素晴らしいと言われるプレイヤーというのはそのために必要な状態を自分の中に作ることで実現しているのだと思っています。ただ言われた通りやっているわけではない。そしてその内面の状態を増幅してお客さんに伝えるのが楽器である。。。
書いてて思いましたが、この話自体すごくファンタジーですね。自分の中にもしっかりと物語がある事が確認できて、めでたしめでたしでした。