針を落とす

以前こんな記事を読んだことがある。

「コーヒーにお湯を注ぐ、レコードに針を落とす。自ら手間をかけることで素敵なひとときとなる。」

コーヒーも音楽も今や片手一つで楽しめる時代。コーヒー豆を挽き、フィルターにお湯を注ぎドリップする。レコードをセットし、針を落とし裏返してまた針を落とす。現代では無駄な手間とも言える。だが僕はこのひと手間により能動的な空間が生み出され、生きている実感が生まれると思う。便利な世の中だからこそこの無駄な手間が必要だと思う。そのためこの記事を読んでとても共感したことを覚えている。

そんなことを言っていながらiPhoneで音楽を聴くことの方が多いし、世の中の便利さは十分と言っていいほど享受していることも確かである。電車やバスの中で、タブレットで新聞を読みながらiPhoneでラジオを流し通勤することもある。かくいう今もパソコンでこの文を書いている。ただふと、こんな日常の中で息切れのようなものを感じることがある。それは長距離をずっと走り続けたような疲労感に近いものである。おそらく目まぐるしい早さで進む毎日に置いていかれないように走り続け、受動的な毎日を送ることに疲れてしまっているのだろう。そんな日々において、コーヒーがポットに落ちていく時間、レコードに針が落ち音が鳴るまでの時間は僕にとっては大事な時間であり尊い瞬間である。

生きやすく便利な世の中であるからこそ、「針を落とす」という行為が大事なのではないか。生きやすさとは生きづらさである。人として、世界に一人の自分として、人生という映画の主役として、他の何かに生かしてもらったままの息もしにくい窮屈な毎日でいいのか。たまには歩いて帰ってもいいじゃないか、僕はそうやって日常の合間合間に針を落としていくことで、自分自身を感じている。



いいなと思ったら応援しよう!