天才

学問、スポーツ、芸術あるいは仕事など、さまざまな分野、いわば人を評価するためのものさしとして世間的である枠組みにおいて、特に秀でた能力を持つ者を「天才」と呼んだりする。

字面から勝手に意味を読み取ると、「天から授かった才能」であり人智を超えた能力であるような印象を受ける。

だがしかし、実在する人間に対して使われる場合は「天才(天から授かったか)のような能力を持つ人」という意味で使われるのが普遍であり、実際に天から授かった才というよりは努力、遺伝、もしくは周囲の環境がもたらした能力を形容する言葉の一つであると考える。つまり人間に為せる業をさす言葉である。

「天才」という言葉を用いて、そうでない人々は羨望の眼差しを天才たちに向ける。特異な能力を持つ者に対し、羨み、妬み、憧れるのだ。

ただ僕は、天才とは何かを持つ者ではなく、何も持たぬ者であるのではないかとつくづく思う。人間として欠落している者こそ天才なのではないかと。

僕は自分の短く薄い人生のなかで、自らの大きな欠陥に気付かず生きてきた。勉強も、スポーツも、社交も、秀でてはいなかったが何不自由なく人として生きていける程の能力は持ち合わせていた。決して裕福ではない育ちだが、衣食住に困る程ではなかった。そのため人生においての選択肢が多く残されたまま成人した。これしかないという道がなかった、それなりにやればそれなりな何かにはなれる気がしていた。

何かに命を懸け、人生を賭け、将来を描くことをしなかった僕が今思うのは、人間として欠落した部分は欠陥ではなく武器であるということだ。その欠陥が残った道を示してくれる。なんでもそこそこできることほど空腹を感じることはない。他人の評価を気にして満遍なく努力を散りばめた結果、数十年を振り返った結果、そこに何も残っていないことに気づく。

欠陥を欠陥としたまま、自分の武器に気づきそれを育てる方を選んだ、歪な凹凸を持つ彼ら天才たちに対し、武器に目もくれず欠陥を埋めようと必死になって布を被せ、土を入れ、コンクリートで舗装した僕は、何も持たず真っ平らになってしまった。


「天才」とは、何も持たぬ者である。

ただ一つを除いて。




全てを手に入れようとしないで欲しい、全てを捨てて何か一つを掴み取ろうとして欲しい。そうすればよかった、そうしようと心に決めた。



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