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蜘蛛の糸をたどる

目の前の答案用紙を前に僕は本気になれなかった。
身体に力が入らず、やる気が起きない。興味が湧かない。
そう、単純に興味が湧かないのだ。

通信制の大学で、国語の教員免許を取っていたときの話だ。四年制大学を卒業後、学童保育の仕事をしながら、通信制の大学で国語科の免許をとるために勉強していた。

勉強の流れは、家で文献を読み、レポートを仕上げる。それが済んだら、大学に行きテストを受ける、という工程だ。

初めてテストを受ける日、大学最寄りの駅で降り、そこから徒歩5分。大学生のころはキャンパスを歩くと、それだけで嬉しかったが、その頃にはその魔法は消えていた。仕事のために免許を取りに行くという事務的な、何かに追われているような、窮屈な感じもした。

テストは大教室で行われた。
開始の合図があったが、僕はたしか20分は解答をしようとしなかった。突然、興味が湧かなくなったのだ。

費用対効果の問題だったのかもしれない。正直、当時の自分には通信制の大学で勉強してまで国語の免許を取る意味が分からなかったのだと思う。だいたい免許を取ったって、教員採用試験を受け、さらに教員として居続けるのも楽ではない。大変すぎる。本を読むことは好きだが、国語を教えるというのは、自分の好きでない教材を教えることもある。前途多難で、わざわざそんな大変な道を行かなくてもいいのに。
そんなことも感じての20分の放心だったのだろう。

時々、考える。あのまま答案を白紙で出して、国語の免許も諦めて、教員になっていなかったら、いまどうなっているのだろうと。

思うのだけど、やりたいことを仕事にする、というのは幻想かもしれない。僕の場合は、具体的に思い付くのが、国語の教員しかなかった。そこまで熱烈ではないけど、あえてやりたい仕事はと聞かれれば、国語の教員かな、と答える。27歳の頃はそういうレベルだった。

こうも言える。やりたいことや欲求などは、何もしないで湧いてくるものではない。僕たちに分かるのは、ほんのちょっとの兆しである。ちょうど芥川龍之介の小説の『蜘蛛の糸』のように、僕たちの目の前には、時々か細い糸が見えるだけだ。そして、それが見えたら、途中で切れるかもしれないけど、その糸をたどってみるしかない。初めからこの仕事一直線、という人はたぶんまれなのではないか。

いまちょうど三者面談期間である。生徒たちにも“好き””ちょっと興味がある”を切り口にいろいろと挑戦してほしいと思う。ダメでもともとである。

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