読書感想文『転んで起きて』
ひろゆきを「しょーもない奴だ」と思いつつもどこか憎めない。その理由のひとつが、奥さんと仲がよさそうだという点だ。その「奥さん」である西村ゆかさんの本を手に取ってみたところ、やはり夫婦仲の良さは伝わってきた。読後感も悪くない。
ただ、私がこの本に引き込まれたのは、もちろん夫婦仲の話ではない。母と父に対する著者の感情の差だった。「私は、母が好きだったのだ。どうしようもなく。」という母への思いに比べ、父は「キングオブクズ」として退けられ、その死に対しても冷淡な態度を見せる。だが、読む限りでは、より迷惑をかけていたのはむしろ母親ではないだろうか。それでもなお母親を愛する理由を、著者は明確には説明していない。
私が勝手に推測するに、それは「一緒にいた時間の長さ」によるものだろう。「一緒に暮らすって味わい深い」という本書の最後の節や、夫婦関係を「50年計画プロジェクト」と表現するあたりに、この考えが垣間見える。結局、人との関係において重要なのは、どれだけ一緒にいたかという単純な事実なのかもしれない。
「去る者は日々に疎し」という言葉もある。一緒にいる時間は、その人の存在を肯定する何よりの理由になる。親子であろうと夫婦であろうと、ただ「そこにいる」ことが関係を形作るのだろう。
ところで、本書の中で一貫して語られる著者の視点には、読者として少し困惑するところがあった。それは、彼女が「まとも」だということだ。まともという言い方は失礼かもしれないが、毒親に振り回されたにも関わらず、極めて冷静でバランスの取れた人物であるように見える。毒親と一言で言っても、度重なる金銭トラブルなど、著者の人生に影を落としたその行動は相当に苛烈だった。常識的には、まともな親がいて、まともな環境で育ったからこそ、まともな人間が育つのではないのか?彼女の存在は、その常識を覆してしまう。
そう。私はこの本を「子育て本」として読んでいる。著者が毒親に育てられてもまともに育ったという事実は、「子を育てるのは親ではない」というメッセージとして私に届いた。古くから「親は無くとも子は育つ」と言うが、「毒親でも子はまともに育つ」のだ。
私自身の子育ては比較的上手くいったと自負しており、そしてそれは少なからず(正直に言えばその大半が)「オレのおかげ」だと思っている。しかし、「オレのおかげ」は本当に関係あるのだろうか。毒親からまともな子が育ったという事実からは、親の「子育て」を否定せざるを得ない。
もしかすると、子育てとは「子どもの足を引っ張ること」なのかもしれない。つまり、子どもがその障害を乗り越える力を育むための試練を与えるという意味だ。足を引っ張ること自体は、必ずしも悪いことではない。むしろ、その過程で子どもは自ら前進する力を養っていくのだろう。ただし、引っ張りすぎれば、それは単なる虐待に変わる危険がある。結局、子育てに明確な正解はない。ただ親として「一緒にいる」こと。それこそが最も大切なことなのかもしれない。それ以上の手出しは、結果的に過剰な干渉、つまり不必要な足の引っ張りとなるのだろう。
結局、母の迷惑が父よりも大きかったかどうかは、著者にとってそれほど重要ではなかったのだろう。一緒にいた時間が長いというだけで、母親への愛は揺るがない。それが「関係を形作る」ということの本質ではないだろうか。また、ひろゆきと「一緒に食事を取ること」を重視し、ひろゆきとのしょーもないケンカのエピソードを並べることも、一緒にいることの大切さを強調している。
著者の意図とは異なるかもしれないが、この本は私に「子育てとは何か」を考えさせた。そして、親の役割について思いを巡らせるきっかけを与えてくれた本として、読んでよかったと思える一冊となった。我が子にも読ませようと思う。「オレのおかげ」から「オレはマシな方」へと格下げになるかもしれないが。