ありよりのなし自由意志
■自由意志は本当に存在するのか?
意識について考えていると、たまに「人間に自由意志はあるのか」という質問を受けることがある。「もし自由意志がないとすれば、犯罪者を罰することができず、社会の秩序が保てなくなる」というのだ。
率直に述べると、私は「自由意志」という問題にそれほど関心を持っていない。
仮に自由意志があるとすれば、世界はすでにその前提で成り立っているため、特に問題は生じない。一方、自由意志がないとすれば、現在とは全く異なる社会秩序を考える必要があるという指摘もある。
だが、これは本当に正しいのだろうか。
犯罪者に自由意志がないから罰することができないという主張には、奇妙な前提がある。なぜなら、この主張は犯罪者には自由意志がないのに、立法者や司法者には自由意志があると想定しているからだ。論理的に考えれば、犯罪者に自由意志がないのであれば、立法者にも自由意志はないことになる。そうであれば、何を犯罪とし、どのような刑罰を科すかということも、すべて必然的に決定されているということになるだろう。したがって、自由意志のない犯罪者を罰することに悩む必要もないはずだ。なぜなら、犯罪者と同様、立法者自身にも自由意志はないのだから。
結局、自由意志の有無にかかわらず、私たちは自由意志があるという前提で生きていくしかないのである。自由意志があると感じられる、それだけで十分なのだ。
■自由意志はどのように考えられているのか
自由意志をめぐる議論では、しばしばベンジャミン・リベットらによる実験が「自由意志はない」という主張の根拠として引用される。この実験では、被験者に好きなタイミングで手首を動かすよう指示し、その際の脳活動(脳波の準備電位)を測定すると同時に、被験者自身に「動かそうと意図した時刻」を報告させている。結果として、実際に被験者が「動かすつもりになった」と報告するよりも先(具体的には0.3秒前)に、脳内に準備電位が立ち上がっていることが観測される。これを根拠に、「自由意志などない」と主張する論者が多い。
驚くべきなのは茂木健一郎がリベットの実験を根拠に「どうやら自由意志はないらしい」と(youtubeで)述べていることだ。「相互作用同時性」の提唱者である茂木が、どうしてリベットの実験を根拠とできるのか、許されるなら本人に聞いてみたい。
それはさておき、リベットの実験が示す結論については、様々な反論が出されている。実験自体は「意図した瞬間」と「実際の準備電位」のズレを示すものだが、それが直ちに「自由意志を否定する」根拠になるのか疑問だというもの。脳科学や心理学の実験における限界、被験者の報告の主観的誤差なども指摘される。それでも、リベットの実験は、自由意志を論じるうえで欠かせない具体例として、しばしば言及される。
そうした神経科学の見地に加え、哲学的・形而上学的な方向からも、自由意志の有無は検討される。
おそらく、直観的には、多くの人は自らの自由意志を疑わないだろう。自らが自分の意思で何かを選ぶことは、疑いのないことに思える。このような直観を肯定する立場が(1)リバタリアン的自由意志 (Libertarian Free Will) だ。ただしこの立場は、自由意志の存在を科学的に証明することが難しいことから、近年は旗色が悪い。
逆に、自由意志などないという立場が(2)ハード・デターミニズム (Hard Determinism) 、いわゆる決定論だ。世界のすべては物理法則によって完全に決定されており、行為者に自由などあり得ないとする立場である。
ただし、決定論では道徳や責任を問うのに不都合だということで、ある意味折衷案的な見解として(3)コンパチビリズム (Compatibilism, 両立論) が提案される。外からの強制がなく、自らの考えや欲求によって行動できるなら、それを「自由」と呼ぶことに問題はないとする。要するに「自由意志」を再定義しているのだが、この定義ならば、物理法則に縛られる世界観の中でも、人間が「自分で決めている」感は十分に説明できるというわけだ。
私が興味深く思うのは、「決定論では道徳や責任を問うのに不都合」と考えられているという点だ。私などは、決定論は決定論、社会規範は社会規範と、それぞれ独立していても良いと思うのだが(その意味では私も両立論者ということになるのだろうが)、どうも世間では責任の帰属が曖昧であることは許されないらしい。両立論では道徳や責任がどのように説明されるのか、次で見てみよう。
■道徳と責任
両立論(コンパチビリズム)が注目されている主な理由は、「自由意志の否定は道徳的責任の概念と対立する」という懸念に対して、現実的な解決策を提示しているからである。
前のセクションで述べた決定論の立場からは、行為者が何か悪い行為をしたとしても、それは因果律によってあらかじめ決定されていたことになる。そうであれば、「なぜその人は悪い行為を選んだのか」と責めたところで、すべて必然だったのだ──という結論になりがちだ。
たとえば、道端のゴミを拾う行為を考えてみよう。決定論では「その行為は物理法則によって必然的に決定されていた」と説明されるが、行為者自身の視点からは「環境を美しくしたい」「気になるから拾いたい」という明確な動機に基づく選択である。両立論者は「それが物理的因果の枠内かどうかは関係なく、本人の意思による行動だと言える」と主張する。こうして「自由にやった」という評価と「物理的因果の支配下にある」という事実を両立させているわけだ。
犯罪についても同様である。もし誰かが悪い行為をすれば、私たちは「自由意志でそう選んだのだから責任を負うべきだ」と言う。決定論を徹底すれば「すべて物理過程の結果」となりがちだが、両立論者は「当人が自己の内的理由によって行為した以上、それは当人の行動として処遇されるべきだ」とみなす。
ここで重要なのは、罰や称賛が行為者の「次の選択」や、周囲の人々の「学習」に影響を与える、という点である。たとえば、悪い行為を罰すれば、本人は「次はやめておこう」と考え、周囲も「私も罰を受けるかもしれないから同じ過ちは避けよう」と学ぶだろう。両立論の視点に立てば、ここでの「学ぶ」過程もまた物理的に決定されているかもしれないが、それはそれとして、罰という社会システムが学習や秩序維持に効果を発揮するなら十分に機能する、というわけである。つまり両立論は「自由意志の概念は単なる幻想ではなく、行為者にとって実効的に意味を持つ」と位置づけるのだ。
このあたり、私にはどうにも滑稽に感じられる。自由意志のあるなしが、科学ではなく社会の要請に基づいて決められるのか、と。もちろん、両立論者は「社会の要請によって科学事実をねじ曲げているわけではない」と言うのであろうし、実際それは「再定義」なのであろう。しかし私としては、そもそも自由意志の有無と社会規範とを関連付けること自体が間違っているように思う。「自由意志があろうがなかろうが、これが社会の掟だ」とした方が、すんなり納得できるような気がするのだが、どうだろう。地動説の時代でもあるまいに、「それでも地球は回っている」と言ったとされるガリレオに共感せざるを得ない。
■ブラックボックス仮説
ここまでの議論は、以下のように整理できる。
・自由意志の存在を肯定することは困難である
脳科学的な知見からすれば、少なくとも完全な自由意志(リバタリアン的自由意志)の存在を擁護することは容易ではない。
・決定論の徹底(ハード・デターミニズム)は現実的でない
すべてが物理法則によって決定されているとする立場は、責任や道徳の概念を根本から見直す必要があるとするが、現実社会における実践的な立場としては極端に過ぎる。
・両立論は現実的な妥協案を提示する
「自分の内的な理由で行動する限り自由である」という再定義により、道徳や責任の概念を維持しようとする。
・私見:自由意志と社会規範は切り離して考えるべきである
自由意志の存在と社会規範とを結びつける必要はない。社会規範は独立した機能として成立しうる。
私の関心は、自由意志と社会規範の関係にはない。私の興味は、おそらく「ない」はずの自由意志を「ある」と感じるのはなぜか、という点だ。たとえ「自由意志など幻想だ」と言われても、私たちは日常的に「自分で選んでいる」と強く感じる。これはいったいどういう仕組みなのだろうか。
ここで、脳内の情報処理過程がブラックボックス化しているために「自分で決めている」という感覚が生まれる、という見方を紹介してみたい。
例えば、昼食でラーメンとカレーを選択する場面を考えてみよう。ラーメン店が閉まっていたためにカレーを選んだ場合、私たちはこれを自由な意思による選択とは考えない。なぜなら、外的な制約によって選択が強制されたことが明白だからである。
次のような場合はどうだろう。今日は辛いものが食べたい、という気持ちからカレーを選んだ場合だ。自由意志を考える際、このようなケースも自らの意思でカレーを選んだとは見なさない。辛いものを食べたいと思わせた体調が、あなたにカレーを選ばせたのだ。
では、私たちが自由意志を発揮してカレーを選んだと実感できるのは、実際にはどのような時だろうか。興味深いことに、それは選択の理由を自分でも明確に説明できない時である。もし何らかの具体的な理由が挙げられるのであれば、その「理由」こそが選択を決定づけたことになり、純粋な自由意志の発露とは言えなくなる。むしろ、「なんとなく」そちらを選んだと感じる時にこそ、私たちは自由意志の存在を強く実感するのである。それは、「なんとなく」という状態では外的・内的な理由が意識に上らないため、あたかも「自分の意志だけ」が純粋に働いているかのように感じられるからである。
ついでに言うと、そのように自由意志を感じたとしても、なにがしかの理由がある、というのが(両立論も含めた)決定論的な考えになる。
この考え方は、多くの研究者によって既に指摘されている。しかし、これまで統一的な呼称が与えられてこなかった。よってここでは、この考え方を「ブラックボックス仮説」と呼ぶことにしたい。
■おわりに
自由意志はあるのかないのか。脳科学的な知見からすれば、少なくともリバタリアン的な意味での自由意志を擁護することは難しい。しかし同時に、私たちは日常的に極めて強く自由意志の存在を実感している。何かを選択するとき、それが自分による選択なのか、あるいはすでに決定されていたものなのか。私たちには、どう考えても自分が選択したとしか思えない。この矛盾に対して、このコラムでは「ブラックボックス仮説」を提示した。選択の理由が明示できないからこそ、「自分で決めている」という感覚が生まれるのである。
基本的に、「自由意志はない」と結論づけて差し支えないと思う。しかし、自由意志の有無そのものは、実は本質的な問題ではないのかもしれない。なぜなら、私たちは「自由意志はある」としか感じられないからだ。先に指摘したように、「自由意志がないとしたら犯罪者を罰することができない」と主張する人々でさえ、立法者や司法者には自由意志があって、罰するかどうかを決めることができると想定している。つまり、自由意志の不在を論じる人でさえ、実際には「自由意志はない」とは考えられないのだ。
「自由意志はない」と言った時、真っ先に挙がる反論は「人生における努力や選択の意味が失われる」というものだろう。バカバカしい。そう思う人は、努力も選択も止めたら良い。しかし、「そう思う」と言う人もそうは思っていないはずだ。何度も言うが、自由意志はないのだけれど、あるとしか思えないのだ。それを「ある」と感じる以上、私たちはそう思って生きていくだろう。
さて、私は冒頭で「意識について考えていると」と述べた。自由意志があると感じるその「感じ」、それもまた、意識の一部であろう。今回のコラムを足がかりに、さらに意識の謎に迫る新たなコラムを書きたいと思う。もちろん、私自身の自由意志に基づいて。