
2035年 人は動物園のパンダになる
人はパンダになる
私はシンギュラリタリアンだ。要するに、AIの進化によってユートピアが訪れると信じる立場である。私の想定するユートピアとは、動物園のパンダのような生活だ。
10年ほど前、南紀白浜にある「アドベンチャーワールド」を訪れた際、そこでパンダを目にした。飼育員が快適な環境を整え、食事を用意し、時には遊び相手にもなる。そのおかげでパンダは、何不自由なく幸せそうに暮らしていた。パンダは飼育員を召使いくらいに思っているかもしれない。飼育員は何やら会議をしているが、もちろんパンダはその内容を知らないし、理解もできないだろう。
AIが飼育員。パンダは人。
2035年、人は動物園のパンダになる。
このような未来を「AIに支配され、飼育されるなんて、ユートピアどころかディストピアだ」と感じる人もいるかもしれない。しかし、それは視点の違いに過ぎない。現代人も電気に支配されていると言えなくはないし、そもそも人類は地球に飼育されているとも言える。それをどう感じ、どう解釈しようとも自由だが、いずれにせよ、その未来は現代よりもはるかに快適なはずだ。物質的な不自由はなく、精神的な充足感も得られる。そんな快適な生活が待っているだろう。
とはいえ、それを良しとしない人もいるだろう。そういう人は冒険に出ればいい。「イントゥ・ザ・ワイルド」――大自然に飛び込んでいく。未来では、そんな冒険も許容されるはずだ。むしろ、そんな未来が訪れてはじめて、人は冒険に出られるのかもしれない。AIが労働を担うことで、人々は生活のために働く必要がなくなり、より自由に自分の意志で行動を選択できるようになるからだ。
そのようなバラ色の未来を想定するのは楽観的すぎるだろうか。10年前なら誇大妄想と思われても不思議ではなかったが、ここ最近のAIの進化を見れば、仮にこれを「100年後」と言った場合、このような未来が到来していないと考えるほうが、よほどのへそ曲がりだろう。
ユートピアは訪れる。問題は、それがいつなのかということ。そして、訪れるまでの期間がどのようなものになるのかということだ。ここでは、そのことについて考えてみたい。
職を失う二人の証言
バラ色の未来を確信している一方で、そこに至るまでの移行期については、厳しい予想をせざるを得ない。実際、それはすでに始まっており、おそらく2026年から大混乱に陥るだろう。
SNSで大きな話題となっていたので、すでに知っている人も多いかもしれないが、二人の証言を紹介したい。
一人は、mbr-brさんという匿名の研究者・大学教員だ。
自分は、AlphaFold2というAIに自分の専門分野の中核を撃たれたこと(そしてそこからある種のドミノ倒しが起きたこと)で……分野が混乱とともに『バラバラ』になっていくのを見ている、大学の一教員である。
著者は、自身の専門分野の中核がAIによって突破されたことで、研究分野が混乱し崩壊していく様子を目の当たりにしている。長年かけて培ってきた専門がAIの登場によってあっという間に形骸化し、「解く問題がなくなる」という形で自分の仕事が崩壊していく――。その状況は、研究者でなくても胸に迫るものがある。
著者が「分野が崩壊する過程が苦しさを伴う」と語っているのは、単に職を失いかねないという経済的問題だけではない。自分や同世代の研究者が長年培った専門性や学問的情熱が、AIの急激な発展によって根こそぎ脅かされるという事態に直面しているのだ。
彼は「多くの研究者はいわば土砂崩れから逃げ惑うような苦しい立場に立たされる」と述べ、息を詰まらせるような恐怖や虚無感と格闘する姿を率直に綴っている。社会は“ノーベル賞”を獲得したAlphaFold(を開発したデミス・ハサビス)を賞賛する一方、その裏で成り立たなくなる仕事や分野、そこに従事してきた人々の重い嘆きに真正面から向き合おうとはしない。そうした現実を前に、「専門性を維持するモチベーションを保つのが難しくなる」という彼の苦しみは、テクノロジーの進歩と仕事の意味を考えるうえで決して他人事ではない。
もう一人は、翻訳家の平野暁人さんである。
2024年末現在、僕の手元にきている来年の依頼は0件。2025年の収入見込みも畢竟、0円ということになる。
冒頭からこう書き出す翻訳家の告白もまた切実だ。「ひとつの翻訳が、終わった」と嘆く彼は、「翻訳家」という専門職を取り巻く構造的不況と、さらに加速するAI翻訳によって「機械から取って代わられる未来」はもはや過去の話ではなく、「すでに取って代わられつつある現在」が到来していると感じている。
DeepLやChatGPTなどの生成AIが一瞬で訳文を吐き出し、素人目には「そこそこ使える」レベルが手に入るようになってきた。そうなれば、発注元は当然コストや速度を優先するため、「人間の翻訳を終わらせるのに、完璧な機械などもとより必要なかった」という冷酷な結論にたどり着く。
著者は「人間の翻訳を終わらせるのは、完璧な機械ではなく、人間が翻訳の要求水準を下げ始めたから」と語る。収益性や効率性を追い求める社会では、「多少ヘンな訳でもだいたいわかるから機械翻訳でいい」とユーザーが思い始めると、仕事はみるみる人間から離れていく。こうした「コストカットの誘惑」を背景に、人間自らが仕事を手放しつつあるという苦い現実を、著者は悲愴感をもって見つめている。
これら二つの証言から見えてくるのは、猛烈なスピードで進化するテクノロジーを前に、長年培ってきた専門性やキャリアが一瞬で価値を失うかもしれないという恐怖だ。漠然と「AIがいずれ仕事を奪う」と予想しているのだとしても、実際に「依頼がゼロになる」「解くべき問題そのものがなくなる」という現場に放り込まれる衝撃は、想像を絶するだろう。
職を失うこと。それは決して他人事ではない。
青に染まれ
よく「AIを使いこなす」「AIを管理・監督する仕事」といった言い方がされるが、近い将来、それも実質的に存在しなくなるだろう。なぜなら、そうした業務すらいずれはAIが担う領域になるからだ。創造性こそ人間にしかできない、という主張もあるが、むしろ創造性こそAIが得意とするものになりつつある。
ホワイトカラーの仕事は早晩すべてAIに奪われる。いずれそうなることはもはや疑いようがない。問題は、それがどのようなスピード感で起こるのか、そして仕事を奪われた人々がどのようになるのかという点だ。
2025年1月6日に投稿されたサム・アルトマンのブログ記事では、次のように述べられている。
“We believe that, in 2025, we may see the first AI agents ‘join the workforce’ and materially change the output of companies.”
(2025年には、初のAIエージェントが「労働力に加わり」、企業の生産性に実質的な変化をもたらすかもしれないと考えています)
この記述を額面どおりに受け取るべきかどうかは分からない。CEOのセールストークとも言えようし、技術的に一定水準を満たしても、社会で利用されるには別の難しさがある。しかし、私自身はエンジニアでもなく、AIエージェントに触れた経験もないので、本当のところは何とも言えない。よってここでは、サム・アルトマンの言葉を素直に信じて、今後の展開を占ってみたい。
もし2025年にAIエージェントが「労働力に加わる」のだとすれば、その影響は2026年から顕在化するだろう。たとえば私のような懐疑派であっても、実際にその成果を見れば認めざるを得ない。もし私が経営者なら、2026年のホワイトカラーの新規採用はゼロにする。
とはいえ、(特に日本では)すぐに大量解雇が起こるとは限らない。だが、新規採用を行う動機はなくなるだろうし、ホワイトカラー業務を外部に委託する理由もなくなる。AIに任せればいいのだから。受託側の企業は経営が立ち行かなくなるだろう。
2026年の段階で失業者が目立ち始め、それは日を追って増えていく。もちろんホワイトカラーが全員失業するわけではない。医師や弁護士などの有資格者は既得権益を死守するだろうし、一部の企業は「不要」な人材でも解雇を避ける場合もある。解雇が法的に禁止される可能性もゼロではない。とはいえ、ホワイトカラーの仕事は事実上消失する。
ある程度の失業者が発生した段階で「資本主義経済がクラッシュする」と見るのが私の見立てだ。現代の産業構造は、非必需品のモノやサービスが大きな割合を占めているが、失業者は必需品以外を消費する余裕がない。必然的に多くの企業が倒産し、また失業者が生まれる……。失業者であふれかえる状況となる。
失業したホワイトカラーの行き先はひとつ――望むと望まざるとにかかわらず、ブルーカラーへの転職だ。「蟹工船」に乗ることになる。
しかし、私の未来予想において、ここがボトムである。ホワイトが完全にブルーに染まるまでの数年、その期間だけをなんとか耐え抜こう。
K減
「蟹工船」はあくまで比喩だ。ホワイトカラー層から見れば、ブルーカラーには「3K(キツい・汚い・危険)」のイメージがあるだろうが、AIによる労働環境の変化を考えれば、近い将来、その認識は大きく変わる可能性があるし、変わらねばならない。
とはいえ現状、「3K」のイメージがあるのは事実である。そこで重要になるのが、AIやロボット技術を活用した「K減(ケイゲン)」の推進だ。これは、ブルーカラーの仕事につきまとう「キツい・汚い・危険」という要素を軽減する取り組みである。たとえば建設現場の高所作業をドローンが代行したり、農作業における重労働をアシストスーツや自動運転トラクターが担ったり、清掃作業を自律型ロボットが行ったりするイメージだ。こうした技術の導入が加速するのが、2027年ごろだと私は予想している。
「K減」が進めば、これまで肉体的負担が大きかったり、危険を伴ったりして敬遠されてきた仕事が、より安全で快適なものに変わる。たとえばAIによる精密な制御が可能になれば、農作業はデータに基づいた効率的な栽培管理とロボット収穫が中心となり、“趣味のガーデニングの延長”のような感覚で取り組めるかもしれない。建設業では3Dプリンターや建設ロボットの活用が進み、DIYに近い感覚で楽しめるようになるかもしれない。そうやってAIが労働を個人の興味や関心と結びつけやすいものへと変えていく可能性があるのだ。
そうなれば「蟹工船」は、むしろ「豪華客船で行くカニ三昧ツアー」くらいのノリになるかもしれない。現在も機械化や自動化によって同様の目標は掲げられているが、AIがブースターとなって「K減」を加速させるだろう。2027年から始まれば、2030年あたりには「趣味と仕事の区別がなくなる」ほど進んでもおかしくない。
そしてその段階で、国民国家は歴史的役割を終え、消滅へと向かうだろう。失業したホワイトカラーのブルーカラー化促進と「K減」の道筋をつけることが、おそらく国家にとって最後の仕事となる。
10年後はユートピア
あらゆるモノやサービスをAIが生産・供給できるようになれば、「お金」を介在させる意味はなくなる。人間が買い手・売り手として必要とされる前に、AIが自動的に最適化してニーズを満たしてしまうからだ。物や情報が無限に近い形で手に入るようになれば、所有や交換の概念は形骸化し、お金は必然的に消えていく。結果として「必要なものがいつでも手に入る」状態となり、ブルーカラーの仕事でさえもロボットやAIと共存しながら、ほとんど趣味のように楽しめるようになるだろう。
もっとも、それは一見「AIに飼われる」ようにも見える。しかし、冒頭で述べたように私の想定するユートピアは動物園のパンダと同じである。パンダの視点から見れば、飼育員はまるで召使いに見えるかもしれないし、「自分が飼育されている」などとは露ほども思っていないだろう。
同じことが、人間とAIにも言える。パンダを世話するのが人間であるなら、人間を世話するAIがいても不思議ではない。飼育員が餌や環境を整えるように、AIが最適な生活空間を整え、食事を手配し、健康をモニタリングしてくれる。こうしてパンダが悠々と暮らせるのと同じように、2035年以降の人間も、AIのおかげで何不自由なく暮らせる可能性がある。
もしAIがあらゆる負担を引き受けてくれるのなら、その恩恵を否定する理由は見当たらない。もちろん、本当に嫌なら「冒険に出る」自由も残されている。大自然を求めて旅立つなり、自給自足の生活をするなり、どんな選択も今よりずっと身軽にできるはずだ。なぜなら、生存のために必死で働かなくてもよくなるからである。
振り返れば、私たちはすでに相当程度「動物園のパンダ状態」に近い暮らしを楽しんでいるのかもしれない。高度成長期以降の日本では、食糧や水は潤沢に供給され、医療サービスも手厚い。そこにAIの力が加わり、それが極限まで行き渡れば、人はまるでパンダのように「毎日を楽しむ」ことに集中できる。パンダにできて人間にできないはずはないし、人間がパンダの世話をしてきたのだから、AIが人間を世話することも何の不自然さもない。
そう、AIが飼育員で、人間がパンダ。それはきわめて自由で豊かな未来の姿だろう。退屈?動物園のパンダが退屈そうに見えるのだろうか。そうかもしれない。そんなときはAIに「退屈だ」と伝えよう。あなたに最適な課題を設定してくれるはずだ。社会からの圧迫もなく、明日を心配する必要もなく、愛されて楽しく暮らす。そして飼育員は人間の知性を超えるAIである。退屈するはずがないではないか。
2035年、私たちは動物園のパンダになる――これは決して皮肉や絶望ではない。所有やお金、国家といった概念が消えゆくことで、人はようやく生存競争から解放される。もはや「奪う理由」も「不満を抱える原因」もほとんどなくなる世界。私には、それこそが希望の光に満ちたユートピアに思えてならない。
「資本主義がクラッシュする」という話は以前にも書いた。
AIに支配されることを恐れる方はこちらをどうぞ。
でも、「ユートピア」では少子化が極限まで進むと思う。
実は2016年に同じ内容で書いています。