カラオケに行かない宣言
もうすぐまた一つ歳をとる。しかし誕生日ってなんなんだろうか。
誕生日はグレゴリウス暦に依存している。
「地球と太陽の相対座標が、自分の生まれた瞬間と等しくなる」と言われたら、おおなるほどと感心するのだが、いかんせん欠陥だらけのグレオリウス歴でなぜ祝われなければならないのか。「うるう」があるので、毎年1/4ずつ座標上の暦とカレンダー上の暦はずれる。真の誕生”座標”日はカレンダー上の日付±1日程度の誤差を持つ。
こうやって、歳を重ねるたびに考えがひねくれてくる。
その中でも、最もこじらせているのが、カラオケに対する感情かもしれない。
ご存知の通りカラオケは、一つの部屋に複数名が籠もり、おおよそ順番に歌を歌うという制度である。その際、歌わない人間は何かしらその場に一体感をもたらすよう奨励されており、具体的には、タンバリンを鳴らしたり、ウルトラソウッ「ヘイ!」といった行為がある。
個の時代といわれる昨今、このような前時代的な様式を持つカラオケは、日常に残る、唯一の集団行動と言っても過言ではないだろう。(いや、過言である。)
一つ申し上げておきたいのは、決して歌うのが嫌いなわけではない。
ヒトカラに自分から行ったことはあるし、良いストレス解消になる。
しかし、やはり、人に歌を聞かせるのも、人の歌を聞くのもどうも好きにはなれない。
上手いと言っても人の歌は所詮素人であるし、何より僕の歌は、歌の体をなしていないといっても過言ではない。(実際、過言ではないのだ。)
それなら、歌わなければ良いのである。
しかし、どんなに存在感を消していても、デンモクは非情にも僕の手元に回ってきてくる。突き返しても戻ってくる。「寄せては返す 波のように」とは誰の曲だったか。
渋々ウルフルズを入れて、大声で歌ってお茶を濁す。
それなら、聞かなければ良いのである。
最近はカラオケでスマホに集中するようにしている。
これが重大なマナー違反だということは重々承知しているのだが、スマホいじるなどして一体感から強引に外れないと、デンモクの周期Tが小さくなることが近年の量子物理学の発展により証明されている。
とはいえ僕にも社会性はある。意図的に体を音楽に乗せて揺らすなどして「私は決して楽しんでないわけではないですよ」というシグナルを出すようにしている。
それなら、行かなければ良いのである。
なので私はカラオケが嫌いだということを予めここに宣言するので、お読みになった皆様におかれましては、善処いただけると幸いだ。
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追記1:
2次会カラオケの流れになったときに「カラオケなら帰るね」と言う勇気がなく、「明日早いから帰るね」とごまかすことが往々にしてある。
追記2:
とはいえ嫌々行ったカラオケの33%は楽しいことも付言したい。
私とカラオケ行ったことのある人でこの記事を読まれたならば、自分は33%の回だったのだな、とポジティブに理解しておいて欲しい。